京都御所 内庭 写真/アフロ

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本文徳天皇実録』より、山田春城という学者です。

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十五歳で大学に入学

『日本文徳天皇実録』の掉尾(ちょうび)は、山田春城(はるき)という学者である。『日本文徳天皇実録』巻十の天安(てんあん)二年(八五八)六月己酉条(二十日)は、次のような卒伝を載せている。

大学助従五位下山田連春城が卒去した。春城は、字(あざな)は連城(れんじょう)。右京の人である。曾祖父の白金(しろがね)は明法博士であった。律令の解釈について通じないところはなく、後に法律を語る者は、皆、白金の解釈を基準とした。春城は年十五歳で大学に入学した。未だ成人していなかったので、学堂の後ろに於いて『晋書(しんじょ)』を聴講した。

後に嵯峨(さが)太上天皇は皇子である源朝臣明(あきら)に大業を成させようと欲して、大学生で学に志す者を求め、学友としようとした。時に春城は徴召に応じた。明と同房となって、諸子百家を閲覧した。丹波権博士に遥授され、勉学の資とした。にわかに太上天皇は崩御し、春城は悲嘆に暮れた。仁明(にんみょう)皇帝は春城に本業を遂げさせようと欲し、詔して校書殿に伺候させ、朝廷の書籍を閲覧させ、内蔵寮の物を下給して日々の食事に充てた。そして備後権少目に遥授した。翌年春、備中権少目に遷任された。

承和(じょうわ)十二年夏、対策(秀才科の試験)に不合格となった。翌年春、少外記に拝任された。備中権少目は元のとおりであった。文徳(もんとく)帝が踐祚(天皇位を受け嗣ぐこと)し、仁寿(にんじゅ)元年の大嘗会で、外従五位下を授けられた。仁寿二年正月、駿河介に遥任された。仁寿三年春三月、自ら請うて任国に赴任した。部下や百姓は春城の清廉な監察を嫌った。

時に国内の駿河郡に、伊豆国から新たに移した神社が有った。阿気大神という名であった。国司は神祇官に申請して新たに社殿を建てて、祭祀を行なった。ところが、禰宜や祝たちがかえって奇異な事で国司や民衆を惑わすようになった。春城は赴任するとすぐに禰宜や祝の誤りや偽りを糺し、それからは妖言が永く絶え、年中行事の祭祀を行なうのみとなった。部下や百姓は春城の聡明な監察を受け入れるようになった。その年の秋、使者を奉じて入京した。明年春正月四日、諸儒が改判され、対策に云ったことには、「尺木寸玉(わずかな木材の節や小さな玉の瑕)が無いわけではない。ましてや大きな才においては、なおさらである。古人の判定は泥のようである。そこで丁の合格とする」と。

斉衡(さいこう)三年正月七日、従五位下を授けられた。天安元年二月、勘解由次官に拝任された。同年十二月、玄蕃頭に遷任された。天安二年二月、病に倒れた。病中で左京亮に遷任され、すぐに大学助に拝任された。左京亮は元のとおりであった。京職は劇務であり、病で業務に携わることができなかった。そこで左京亮を辞任し、大学助で卒去した。時に行年四十九歳。春城は寒門(低い家格)から成長したとはいっても、性が甚だ寛裕で、言葉は正直であった。おもねったりまがったりすることが無かった。小芸を好むことも無かった。物忌や祟りに拘らなかった。頗る儒骨(学者としての本分)を得たのである。

 春城の曾祖父の白金は、有名な明法博士であり、養老律令修定の事業に加わった。百済人成(くだらのひとなり)と同一人物であるという説もある。山田連は中国系渡来氏族で、周(しゅう)の霊(れい)王の太子である晋(しん)の末裔を称しているが、白金が百済人成と同一の人物であったとすると、百済系の渡来氏族であったことになる。渡来系のせいもあってか、この氏は平安京の右京に宅地を与えられていた。

 春城は弘仁(こうにん)元年(八一〇)の生まれ。父祖の血を受け継ぎ、幼い頃から学問に励み、弘仁十五年(八二四)、十五歳で大学に入った。未成年であったため、講堂の後ろで『晋書』を聴講したという。

 その後、嵯峨上皇が皇子である源明を大学で学ばせるために、大学生の学友を求めた際に、春城はこれに応じ、春城と源明は同じ学房で諸子百家を学んだという。源明は嵯峨の第五源氏で、弘仁五年(八一四)の生まれ。生母が伊勢(いせ)の采女の飯高宅刀自(いいたかのやかとじ)という「雑多な中小諸氏の子女」であったため、親王になれずに、源氏に降下した。同母兄の源常(ときわ)は左大臣に上っているが、明は参議にとどまった。これは嘉祥(かしょう)三年(八五〇)に兄の仁明天皇が崩御すると、出家して法名素然(そぜん)を名のり、横川に住んだためである。横川宰相入道と呼ばれ、仁寿二年(八五二)に横川で入滅した。享年四十歳。

 嵯峨は春城の勉学の資とするために、丹波権博士の官職を授けた。これは遥授といって、赴任せずに給与のみを支給される制度である。承和九年(八四二)に嵯峨が崩御し、春城は悲嘆に暮れたが、嵯峨皇子である仁明天皇は、春城の学業を遂げさせるために、春城に内裏の校書殿に侍することを命じ、朝廷の書籍を閲覧させるとともに、生活のために内蔵寮の物資を与えた。三十四歳の承和十年(八四三)に備後権少目、三十六歳の承和十二年(八四五) に備中権少目に遥授された。

 しかし、この承和十二年に対策という秀才科の試験に不合格となった。それでも翌承和十三年(八四六)に三十七歳で少外記に任じられたのは、仁明が春城の能力を高く買っていたためであろう。

 仁明皇子の文徳天皇の時代になると、仁寿元年(八五一)の大嘗会で、外従五位下を授けられ、翌仁寿二年正月に四十三歳で駿河介に任じられた。これも遥任であったが、何と仁寿三年(八五二)三月、自ら請うて任国の駿河に赴任した。これはきわめて異例のことであり、現地の国衙の官人たちも、さぞかし驚いたことであろう。たんに学問に明け暮れるのではなく、現地の情勢を把握したいという、春城の強い意志が読み取れる。

 案の定、国衙の部下や百姓は春城の清廉な監察を嫌った。ところが、駿河郡に、伊豆国から移した神社が有り、新たに社殿を建てて、祭祀を行なったのだが、禰宜や祝といった神官たちが奇異な事で国司や民衆を惑わすようになっていた。春城は赴任するとすぐにその誤りや偽りを糺したので、それからは妖言が絶え、神社は年中行事の祭祀を行なうのみとなった。これによって、部下や百姓は春城の聡明な監察を受け入れるようになったという。地方の神社の神官は、古来の地方豪族であることが多く、それらが淫祠を行なっていたのであろうが、都で正統な学問を修めた春城にそれが通用するはずはなかった。これも典型的な良吏像の一類型である。

 その年の秋に、春城は入京した。翌仁寿四年(八五四) 年正月、かつての対策の判定が改められ、合格とされた。改判の初例であるというが、他人事ながら喜ばしいことである。すでに春城は四十五歳になっていた。

 斉衡三年(八五六)、従五位下に叙爵され、四十七歳で貴族の仲間入りとなった。それ以降、春城の出世が始まる。四十八歳の天安元年(八五七)二月に勘解由次官、同年十二月に玄蕃頭に遷任された。しかし、突然の重責に身体が堪えられなかったのであろうか、翌天安二年二月に病に倒れてしまった。それでも病中で左京亮に遷任され、すぐに大学助を兼任することになった。

 春城の能力と実績から考えると、当然の出世ではあったが、やはり病で業務に携わることはできなかった。そこで左京亮の方は辞任したが、大学助のまま卒去したのである。四十九歳というのは、当時としてはとりわけて早世というわけではないが、それでも子供の頃からの苦学が身体を蝕んでいたであろうし、突然の激職就任で、心身がそれに堪えられなかったのであろう。

『日本文徳天皇実録』の編者は、春城は寒門から成長したが、性が寛裕で、言葉は正直であった。おもねったりまがったりすることが無く、小芸を好むことも無かった。物忌や祟りにも拘らなかった。頗る学者としての本分を得たのであると、その人となりを称賛している。同じく学問に志していながら、やたらと小芸を好む私としては、耳の痛いところである。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)