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(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。

*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本後紀』『続日本後紀』所載分​)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。​

「平安」な時代にも事件は起きる

 有名な文人である橘直幹(なおもと)が遭遇した事件について述べよう。直幹は長門守長盛(ながもり)の子。母は桓武(かんむ)天皇皇孫の棟良(むねなが)王の女(むすめ)。生没年未詳。橘公統(きんむね)に学び、大江維時(これとき)の弟子ともいう。天暦(てんりゃく)から天元(てんげん)の間、大内記・大学頭・文章博士・式部大輔に任じられ、正四位下に至った。左大臣藤原忠平(ただひら)や村上(むらかみ)天皇の信任を得て、詩会に序を作り題を献じ、致仕の表を代作などした。天暦八年(九五四)に民部大輔の兼任を要望した奏状は名文で、『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』や『作文大体(さくもんだいたい)』にも引かれている(『国史大辞典』による。今井源衛氏執筆)。

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 この事件は、まず『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の天徳四年(九六〇)四月十八日条に、次のように記されている。

式部大輔直幹朝臣が式部省から退出した際、美福門の前に於いて雑人の為に打ち損ぜられた。

 同じ日の『日本紀略』では、次のように記録されている。

式部大輔橘直幹朝臣が省から退出した際、美福門の前に於いて雑人の為に殴損された。朝廷は嫌疑者で同じ省の史生である奈癸忠雅(なきのただまさ)を召し捕えさせた。

 二つの史料がほぼ同じ文章であることから、これら私撰国史と称される史料が、外記日記など同じ原史料を基にしていることがわかるのだが、『日本紀略』では容疑者を追捕することが記されている。

 平安時代は、何度も出された新制で、武官以外の者が京内で武器を携行することを禁じるなど、世界でも稀な「平安」な時代であった。しかし何度も同じ命令が出ていることから、完全には効果がなかったことも示している。

 ただし、世界史的に見て、また日本の他の時代と比較して、きわめて平和な時代であったことは、記憶に留めておくべきであろう。このような暴力事件もしばしば史料に見られるが、見方を変えれば、たまにしか起こらないから、こうやって史料に記されるのである。

 それは現在の新聞やニュースで語られる事件と同じことである。平安時代に暴力事件がしばしば見られたからといって、それをことさらに強調して、平安京が暴力的な都市であったと強調するのは、事の本質を見誤った解釈と言わざるを得ない。もちろん、それがわかっていて、そのような言辞を為すのなら、それはもう、歴史学の範囲を超えたものである。