三輪山・箸墓古墳 写真/倉本一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、大神虎主です。

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名族大神氏の末裔ではなく…

 大神(おおみわ)氏の官人を扱うのは、はじめてである。『日本三代実録』巻四の貞観二年(八六〇)十二月二十九日甲戌条は、大神虎主(とらぬし)の卒伝を載せている。

従五位下行内薬正大神朝臣虎主が卒去した。虎主は、右京の人である。自ら大三輪大田々根子(おおみわのおおたたねこ)の後裔であると言っていた。虎主は、本姓は神直(みわのあたい)。名を成した後、姓を大神朝臣(あそん)と賜わった。幼くして俊弁で、医道を受学し、針薬の術は、ほとんどその奥義を究めた。承和二年、左近衛医師となり、侍医に遷任された。承和(じょうわ)十五年、外従五位下を授けられ、参河掾となった。後に備後掾に遷任された。斉衡(さいこう)三年、従五位下を授けられた。貞観(じょうがん)二年、内薬正に拝任された。卒去した時、行年は六十三歳。虎主は、性は戯謔を好み、もっとも滑稽を行ない、人と言談する際は、必ず対事した。かつて内裏から出て、地黄煎を作る処に赴き、途中で友人に逢った。問うて云ったことには、「何処に向かって去るのか」と。虎主が答えて云ったことには、「天皇の命を承って、地黄の処に向かっている」と。これはその類である。ところが、処置には効果が多く、人は皆、要引した。病を治療する技量は、(物部) 広泉(ひろいずみ)が没した後は、虎主が後塵を継いで、はなはだ声価を収めた。

 虎主は、先に紹介した物部広泉(もののべのひろいずみ)の後を継ぎ、医学の道を究めた。大神氏というから、七世紀末の伊勢神宮の成立以前は三世紀の倭王権成立以来の神であった大和の三輪山の神を奉斎していた名族大神氏の末裔かというと、そうではなく、元々は神直だったというから、大神氏の下で神祇の実務を担当した伴造氏族の出身だったのであろう。大神氏自体も律令制成立以降は没落していったから、その下の神氏がこの時代まで生き残っていたというのは、感動的でさえある(血縁を継いでいたかどうかはわからないが)。

 医師として名を成した後、主家である大神氏を名のったというから、こういった事例は、古代ではよくあることだったのであろう。

 虎主は、延暦十七年(七九八)に右京で生まれた。幼い時から優秀で、医道の道に進み、特に針薬の奥義を究めた。承和二年(八三五)に三十八歳で左近衛府の医師となり、まもなく侍医として天皇の診察にあたった。嘉祥(かしょう)元年(八四八、承和十五年)には外従五位下に叙された。神直から大神朝臣へ改姓されたのは、五十七歳の斉衡元年(八五四)のことであった。この頃には、文字どおり「名を成して」いたのであろう。この間、物部広泉や菅原梶成(すがわらのかじなり)・菅原峯嗣(みねつぐ)と共に、『金蘭方(きんらんほう)』五十巻という医学書を編纂しているが、完成したのは虎主の死後のことのようである。

 そして五十九歳の斉衡三年(八五六)に従五位下に叙され、貴族の仲間入りをした。その出自から考えると、素晴らしい出世である。六十三歳の貞観二年(八六〇)十一月十七日には内薬正に任じられ、その道の頂点に立った。この年の十月三日に十三歳年長の物部広泉が卒去した後を継いだものである。

 しかしながら、虎主に残された時間は、長くはなかった。その年の十二月二十九日に六十三歳で卒去してしまったのである。せっかくつかんだトップの座にも、一箇月余りしかいられないとは、世の無常を強く感じさせる例である。

 はかない話ばかりでは気が滅入るので、虎主の逸話に触れることにしよう。どうも虎主は冗談好きな性格だったようである。卒伝には、内裏から地黄煎(地黄〈ゴマノハグサ科の多年草の根〉を煎じた補血強壮薬)を作る場に向かう途中で友人と出会い、どこに行くのか問われたところ、天皇の命を奉じて地黄の所へ向かう」と答えたという逸話を載せている。

 何が面白いのかわからない話であるが、古代ではこういった話も冗談として受け容れられていたのであろうか。そういえば、先だって亡くなった私の指導教官も、今のは冗談だったのかどうかわからない冗談をよく話されていた。偉大な人物というのは、そういうものなのかもしれない。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)