愛媛県松山市北条、鹿島山頂からの眺め 写真/フォトライブラリー

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、物部広泉です。

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若くして医術を学び、多く医書を読む

 物部(もののべ)氏の官人を扱うのは、はじめてである。『日本三代実録』巻四の貞観(じょうがん)二年(八六〇)十月三日己夘条は、物部広泉(ひろいずみ)の卒伝を載せている。

正五位下行内薬正侍医参河権守物部朝臣広泉が卒去した。広泉は、左京の人である。元は伊予(いよ)国風早(かざはや)郡で、姓は物部首であった。後に平安京に貫附され、姓を朝臣と賜った。広泉は、若くして医術を学び、多く医書を読んだ。天長(てんちょう)四年、医博士・典薬允となった。遷任されて侍医となった。後に伊予・讃岐掾に累遷された。侍医は元のとおりであった。天長六年春、外従五位下を授けられ、内薬正となった。侍医は元のとおりであった。天長十四年、従五位下を授けられ、伊予掾に任じられた。仁寿(にんじゅ)四年、従五位上を授けられ、肥前介となった。内薬正と侍医は元のとおりであった。天安(てんあん)二年、参河権介に任じられた。貞観元年冬、正五位下を授けられ、参河権守に転任した。内薬正と侍医は元のとおりであった。広泉は、薬や治療法の道では、当時、比肩する者がいなかった。年齢は老境に至り、鬚や眉が真っ白になっても、皮膚には光沢があり、身体や気力はまだ壮健であった。卒去した時、行年は七十六歳。『摂養要決(せつようようけつ)』二十巻を撰述し、世に広めた。

  先に物部氏がはじめての登場と述べたが、古代の名族物部連(むらじ)の主流は、天武(てんむ)天皇の時代の末年に朝臣(あそん)の姓を賜って石上(いそのかみ)という氏名に改名している。奈良時代には左大臣石上麻呂、中納言乙麻呂、大納言宅嗣を出すなど、繁栄した。しかし、勢力は次第に衰え、平安朝には議政官に上る者はいなくなって、六国史に登場する官人は、いずれも五位であった。ただ、元日や大嘗会に際して、傍流の榎井(えのい)氏とともに楯桙を立てる役割を担っていた。

 それら物部氏の主流とは別に、旧姓が首(おびと)であった氏族もいた。主流は天武天皇十二年に連、翌十三年に宿禰(すくね)の姓を賜り、氏名を布留(ふる)と改めた。ただし、その後も物部首の旧姓に留まった者もいた。

 六国史に見える物部氏は、この物部首の後裔であろう。摂関期にも、しばしば物部氏の下級官人が登場する。

 広泉は、延暦(えんりゃく)四年(七八五)に伊予国風早郡(現松山市北部)で生まれた。若くして医術を学び、多く医書を読んだとあるが、それは平安京に移ってからのことであろうか。さすがに伊予国の国府(現今治市)からも離れた地方に、それほどの医術や医書があったとは考えられない。

 いずれにしても、宮内省典薬寮で医生として学ぶのではなく、独学で学んで典薬寮に出仕したというのは、その実力を認められてのことであろう。それのみならず、天長四年(八二七)に四十三歳で医博士兼典薬允(典薬寮の判官)に任じられたというのは、古代官人制における快挙と称すべきである。

 その後、侍医に任じられたとあるが、侍医というのは、常に内裏に伺候し、平常時は天皇出御の際、北面の小板敷から望診し、不例のときは脈を診て医薬を供するという、きわめて重要な地位である。よほどの実力と信頼を得ていたものと思われる。卒伝には、薬や治療法の道では比肩する者がいなかったとある。

 承和(じょうわ)十二年(八四五)には六十一歳で内薬正に任じられ、遂にその世界でのトップに立った。他人事ながら、この出世に快哉を送りたい。承和十四年(八四七)に従五位下に序されたというのも、広泉が中央貴族として認められたことを示している。斉衡(さいこう)元年(八五四)に首姓から朝臣姓に改姓されたのも同様である。

 この間、伊予掾・讃岐掾・伊予権掾・肥前介・三河権介を次々と兼任したが、内薬正と侍医は元のとおりであったとあるから、任地に赴くことなく、歴代天皇の診察にあたっていたのであろう。『摂養要決』二十巻を撰述したとあるが、現在は伝わっていない。書名から考えて、一種の養生書だったのであろう。

 広泉自身も、年老いて鬚や眉が白くなっても、皮膚には光沢があり、身体や気力は壮健であったというから、神仙の雰囲気も漂わせている。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)