京都御所 写真:ogurisu/イメージマート

 大河ドラマ「光る君へ」のヒットで注目を集める平安時代。意外に知らないことや思い違いに気付いた方も多いのではないでしょうか?

「書籍『平安貴族列伝』発売記念!著者・倉本一宏氏に聞く平安時代のリアル」に続き、「光る君へ」の時代考証を担当する倉本さんに、今回も学校では習わなかった、平安時代の奥深さを伺いました。

 話題の書籍『平安貴族列伝』のもととなる六国史や、藤原実資、藤原行成、藤原道長3人の日記について、倉本さんが専門とする「古記録学」や、大河ドラマファンなら気になる「時代考証」について、紹介します。

人口も都の形も流動的だった平安京

——貴族たちが生きていた平安時代とはどんな時代だったのでしょうか?

 平安時代は400年くらい続きましたが、前期、中期、後期、院政期、平氏政権と、大きく5つに区分できます。貴族たちが暮らしていた平安京の人口は非常に流動的で、だいたい5万~20万人の間だったといわれています。今の東京もそうなんですが、定住していなくても住んでいる人はいるわけで、平安京にも地方から入ってきて都の内部に寝泊まりしている人たちが数多くいました。

 平安京がどんな形をしていたかというと、皆さんの多くが目にしたことのあるような形はしていませんでした。あれは九条家本『延喜式』にある図がもとになっているんですが、あれは設計図のようなもので、あんな形の都ができたことは一度もありません。まず、右京はほぼつくっていなかったと思います。特に右京の南半分、ここは桂川の河川敷で大水が出るたびに川の流れる道筋が変わりますから、そんな場所に町はつくれないんです。

 一方、左京の南側も、六条より南には鴨川が入ってきているので、そこには町はなかったはずです。中国の都と違ってまわりに城壁がなく、道がのびているだけなので、例えば東京極の東側は住みやすいのでどんどん町が広がっていく。鴨川の東側にも町ができてしまっているので、今の京都市街とだいたい同じような形だったと思います。ここから手前が平安京内で、この向こうは京外っていう概念はあまりなくて、道を渡ったらもう都の外だった、という感じだったのではないでしょうか。