北辺第故地 写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、源信です。

*この連載(『日本後紀』『続日本後紀』所載分​)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。​

公家源氏の誕生

 久々に高位高官の人を語るとしようか。『日本三代実録』巻十五の貞観十年(八六八)閏十二月二十八日丁巳条は、左大臣正二位源信(まこと)の薨伝を載せている。

左大臣正二位源朝臣信が薨去した。信朝臣は、嵯峨(さが)太上天皇の子で、源氏の第一郎である。母は広井(ひろい)宿禰氏。大臣(信)は人となりが俊雅で、常に気高かった。好んで書伝を読み、草書や隷書が得意であった。また、図画に巧みで、丹精の妙で、馬の形は真を写した。太上天皇は親しく自ら笛を吹き、琴箏を鼓し琵琶を弾くなどの技を教習した。思いわたるところは、その微旨を究め、また鷹馬による射猟はもっとも意を留めるところであった。

天長(てんちょう)二年冬、従四位上に叙された。天長三年春、侍従に任じられた。数月で遷任され、治部卿となった。天長五年、播磨権守を兼ねた。天長八年、参議に拝任された。天長九年、正四位下に叙された。その年、左兵衛督となった。播磨権守は元のとおりであった。天長十年、爵を進められて従三位となった。承和(じょうわ)二年、正三位近江守に加任された。すぐに左近衛中将に遷任された。近江守は元のとおりであった。承和四年、遷任されて左衛門督となった。承和八年、武蔵守を兼ねた。承和九年七月、嵯峨太上天皇が崩御した。憂いによって職を去った。同月、中納言に拝任された。承和十五年、大納言に転任した。嘉祥(かしょう)三年、従二位を授けられ、皇太子傅を兼ねた。仁寿(にんじゅ)年間、右近衛大将を兼ねた。斉衡(さいこう)初年、左大臣に拝任された。天安(てんあん)二年、正二位に至った。

貞観(じょうがん)六年冬、これより先、大納言伴(とも)宿禰善男(よしお)は大臣と諍い、徐々に嫌隙を積んだ。ここに至って、書を投げ送って云ったことには、「大臣は中納言源朝臣融(とおる)・右衛門督源朝臣勤(つとむ)たち兄弟と謀を同じくし、反逆を起こそうとしている」と。時世は嗷々とした。善男はこれに乗じ、顕言して云ったことには、「大臣が不善を行なおうとしていることは、既に先の風聞が有る。今、この密書があったことは、このとおりである。その反逆は明白であると称さなければならない」と。貞観七年春に至り、大臣の家人清原春滝(きよはらのはるたき)を日向掾とし、左馬少属土師忠道(はじのただみち)を甲斐権掾とし、左衛門府生日下部遠藤(くさかべのとおふじ)を肥後権大目とした。皆、これは鞍に乗って弓を引くのが得意な者であって、抜擢したようなものであるとはいっても、実は大臣の威勢を奪ったのである。

貞観八年春、使を遣わして大臣の家を囲守しようとした。善男が右大臣藤原朝臣良相(よしみ)と謀を通じて行なったところである。時に太政大臣(藤原良房〈よしふさ〉)はこの謀が有ることを知らず、知らせが至るに及んで、愕然として色を失った。そこですぐに奏聞し、事情を確認した。帝(清和〈せいわ〉天皇)が云ったことには、「朕は未だ曾て聞いていないことである」と。ここに勅して参議右大弁大枝(おおえ)朝臣音人(おとんど)と左中弁藤原朝臣家宗(いえむね)を遣わし、前後を慰諭させた。勅使がやって来たので、大臣は始め危懼する気持ちがあったが、救恤したことはこの上無かった。勅慰を蒙るに及んで、生気は更に燃え、虎口は既に免れた。大臣は家中に持っていた駿馬十二疋、および賓従四十余人を献上して、自分は単子にして孤独で、また勢援が無いことを示した。朝廷はこれを受けず、皆、すべてこれを返した。

大臣は以後は門を閉じて、たやすく出ようとはしなかった。憂情をどこかへ開きやろうとして、摂津国に向かった。時に野中に出て禽獣を追い、馬から墮ちて深泥に陥り、自ら抜け出すことができなかった。人がいて扶け起こした。気はほとんど絶え、しばらくして蘇息した。病を受けて帰り、心神は恍忽として、数日にして薨去した。時に行年は五十九歳。

遺命により薄葬し、殯歛の日には、人は多くそれを知らなかった。平生、北山の嶺の下に一屋を造立していた。中に一床を置き、棺はその上に据えた。固く四壁を閉じ、人畜がこれに入り込まないようにした。

子供に恭(つつしむ)・平(ひらし)・有(たもつ)がいた。三人は共に爵位は四位に至った。翌年三月、大臣は正一位を追贈された。

 熾烈な皇位継承争いのなか、嵯峨天皇は在位中に、皇親賜姓(こうしんしせい)に関する画期的な措置をとった。弘仁(こうにん)五年(八一四)五月、自らの皇子女八人に源朝臣(あそん)の姓を賜って臣籍(しんせき)に降下(こうか)させたのである。公家源氏の誕生である。親王・内親王が多く(合わせて五十人)、国費を圧迫しているので、これを臣下とするというのが、その理由である。

 弘仁五年に源氏となった嵯峨の皇子女は、皇子が信・弘(ひろむ)・常(ときわ)・明(あきら)の四人、皇女が貞姫(さだひめ)・潔姫(きよひめ)・全姫(またひめ)・善姫(よしひめ)の四人、計八人である。後に賜姓された者も含めると、皇子十七人・皇女十五人、計三十二人が源朝臣姓を賜って臣籍降下している。生母の氏族や后としての身位が低かった者が賜姓されたのである(倉本一宏『公家源氏』)。

 なお、信の生母の広井氏というのは、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、摂津国百済郡を本拠とし、百済(ひゃくさい)国の避流(ひる)王の子孫を称する渡来系氏族である。ほとんど官人としての動静が見えない中小氏族であった。信の生母は宮人であり、后妃の列には入っていなかった。信の出生順ははっきりとはわからないが、仁明(にんみょう)天皇として即位した正良(まさら)親王と同年の生まれであることから、第一皇子か第二皇子であろう。

 彼らは信を戸主(へぬし)として、平安京左京一条一坊に貫付(かんぷ)された。左京一条一坊というのは大内裏の中であり、たんなる戸籍上の問題と考えるべきである。おそらくは各自の出生地(生母の里邸〈りてい〉か)に居住していたのであろう。なお、初代源氏長者(げんじちょうじゃ)とされ、「北辺左大臣(きたのべさだいじん)」と称された信の邸第である北辺第(きたのべてい)は、左京北辺二坊七町に所在していた(『拾芥抄〈しゅうがいしょう〉』)。

 臣籍に降下した嵯峨源氏(さがげんじ)の官人の多くは、四位に叙された。しかもほとんどが十代半ば、つまり元服と同時に位階を賜っているのである。

 ここで述べる信は、淳和(じゅんな)天皇の天長二年(八二五)に十六歳で出身すると、天長八年(八三一)に二十二歳で参議、仁明天皇の承和九年に三十三歳で中納言、嘉祥元年(八四八)に三十九歳で大納言に任じられ、文徳(もんとく)天皇の天安元年(八五七)に右大臣を越任(おつにん)して左大臣に上った。四十八歳の年のことであった。

 生来、才知に優れていたうえに、洗練されて上品な性質であり、人並みならぬ気高さがあったという。古人の書物を好んで読み、書にも優れ、図画も巧みで馬の形の絵は本物のようであった。また、嵯峨上皇からは親しく笛・琴・琵琶の伝習も受けた。特に鷹狩に心を注いだとある。この鷹狩が後に大きな惨禍をもたらすのであるが、それは後の話である。

 あらゆる物事を究めたというのも、いかにも血筋のいい貴人に相応しいが、政務に関する評価は記されていない。これも一般的に政務や権力に恬淡な皇親氏族に相応しいものである。

制作/アトリエ・プラン
拡大画像表示

 そして斉衡元年(八五四)に四十三歳で死去した常の後を継いで源氏の中心となった信は、しかしながらすぐには大臣には上れず、天安元年(八五七)に藤原良房が左大臣を越任し、「朕(ちん/文徳天皇)の外舅(がいきゅう)」として一挙に太政大臣に任じられた際、ついでに左大臣に任じられた。