大宰府正庁正殿跡 撮影/倉本一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、清原岑成です。

*この連載(『日本後紀』『続日本後紀』所載分​)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。​

天武天皇の皇子、舎人親王の後裔

 清原(きよはら)氏の官人を扱うのは、はじめてである。『日本三代実録』巻五の貞観三年(八六一)二月二十九日癸酉条は、岑成(みねなり)の卒伝を載せている。

参議従四位上行大宰大弐清原真人岑成が卒去した。岑成は、左京の人である。贈一品舍人(とねり)親王の後裔である。曾祖父は二世の従四位上守部(もりべ)王、祖父は従五位下猪名(いな)王、父は無位弟村王である。岑成はこれは弟村(おとむら)王の子である。天長(てんちょう)五年、近江大掾となった。天長六年、従五位下を授けられ、筑後守となった。天長七年二月、母の憂いによって官を去った。その年十月、近江介に拝任された。天長九年、従五位上に加叙された。岑成は、元の名は美能(みの)王。天長十年六月に至って、姓を清原真人と賜り、名を改めて岑成となった。

十一月、正五位上に加叙された。承和(じょうわ)元年、従四位下を授けられた。承和十一年、越前守となった。赴任の後、休暇を取って入京し、隠居して出仕しなかった。所司が奏聞し、官は解任され、従四位下の位階も剥奪された。承和十三年、正五位下を授けられた。承和十四年春、大和守に拝任された。嘉祥(かしょう)元年、従四位下を授けられ、弾正大弼となった。遷任して左中弁となった。仁寿(にんじゅ)二年、地方に出て越前守となった。八月、都に留めて弾正大弼となった。斉衡(さいこう)二年、従四位上に進み、右大弁に除任された。天安元年、大蔵卿に遷された。天安(てんあん)二年、因幡守を兼任した。貞観(じょうがん)元年、参議に拝任された。貞観二年、大宰大弐となった。官に於いて卒去した。

岑成は、性格は清廉で正直であり、細かいことに拘らなかった。初め大和守となり、盛んに官舍を造築した。政事に有能との名声があった。後に大宰大弐になり、西府の倉庫の破損が特に甚しかった。意を決して修造しようとし、安心していることができず、神社の木を伐採して、修理の用途に充てようとした。或る人が諌めて云ったことには、「この神は実際に霊が有ると称しています。祟咎の致るところは、人に利がありません」と。岑成はこれを拒んで、肯んじなかった。無理に木を伐採して取らせた。これによって病を受け、幾くもなく卒去した。時に行年六十三歳。

 清原氏には複数の系統があるが、主流は天武(てんむ)天皇皇子の舎人親王の後裔である。舎人親王七男の大炊(おおい)王が藤原仲麻呂(なかまろ)の後見を受けて淳仁(じゅんにん)天皇となったものの、仲麻呂の敗死後に皇位を降ろされ、淡路で横死することになった。兄の船(ふね)王・池田(いけだ)王やその子たちも配流された。舎人親王一男の三原(みはら)王は早くに死去しており、難を免れた。その孫の夏野(なつの)が清原真人を賜り、右大臣まで上ったが、他は中下級官人で終わっている。

制作/アトリエ・プラン
拡大画像表示