五世王としては破格の出世

 岑成は舎人親王五男の守部(もりべ)王の後裔である。守部王の曾孫である美能王が清原真人を賜り、岑成となった。なお、清少納言(せいしょうなごん)は歌人として有名な深養父(ふかやぶ)の孫、元輔(もとすけ)の女(むすめ)であるが、この系統の始祖については伝えが錯綜していて不明である。

 岑成は延暦十八年(七九九)の生まれ。元は美能王といって、天武(てんむ)天皇の五世王である。天長六年(八二九)に三十一歳で正六位上から従五位下に叙爵され、筑後守に任じられた。これは五世王としては破格の出世である。天長九年(八三二)に従五位上に昇叙した後、翌天長十年(八三三)に三十五歳で岑成に改名して(『公卿補任』)、正五位下に昇叙した。そのまた翌年の承和元年(八三四)に従四位下に昇叙しているのは、平安時代の皇親出身氏族としては稀に見る出世と言えよう。

 しかし、承和十一年(八四四)正月に越前守に任じられて赴任したものの、休暇を取って入京し、隠居して出仕しなかった。十月に解任され、翌承和十二年(八四五)には位階も剥奪されている。性格は清廉で正直であり、細かいことにこだわらなかったとあるが、北国の寒さと雪が堪えたものであろうか。

 ただし、有能な岑成を朝廷が放っておくはずはなく、承和十三年(八四六)に正五位上に叙され、承和十四年(八四七)に今度は寒くない大和守に任じられ、ふたたび従四位下に昇叙された。大和守としては盛んに官舍を造築し、政事に有能との名声を得た。

 嘉祥二年(八四九)には美濃守に任じられたが、この年、清原姓を賜り、臣籍降下している。年末には中央に呼び戻され、左中弁に任じられ、翌嘉祥三年(八五〇)には五十二歳で蔵人頭に補された(『蔵人補任』)。そして中央での昇進が始まる。斉衡二年(八五五)には従四位上に叙されて右大弁、天安元年(八五七)に大蔵卿に任じられた。そして貞観元年(八五九)、六十一歳でついに参議に任じられ、公卿に上ったのである。清原氏としては右大臣清原夏野が承和四年(八三七)に薨去して以来、実に二十二年ぶりのことであった。

 しかしながら、岑成に残された年月は多くはなかった。貞観二年(八六〇)に大宰府の実質的な長官である大弐に任じられて赴任すると、翌貞観三年(八六一)に六十三歳で卒去してしまったのである。当時としては老年に至っての大宰府赴任ということで、健康に影響したことは十分に考えられる。九州とはいっても、筑前はけっこう寒いのである。

 卒伝は次のような逸話を載せている。現地でささやかれた噂だったのであろう。大宰府の倉庫の破損が特に甚しかったので、修造しようとし、神社の木を伐採して、それで修理しようとした。かつて大和国で得た名声が頭をよぎったであろうことは、想像に難くない。

 或る人が、この神には霊が有るので祟りがあると諌めたものの、岑成はこれを拒んで、無理に木を伐採したので、病を受けて卒去したというのである。

 実際には、すでに当時の平均寿命をはるかに超えていた岑成だったので、現地で死去しても不思議ではないのであるが、たとえたんなる病死であったとしても、死の瞬間に「或る人」の諫言が臨死夢(Near Death Dream)として脳裡に蘇ってきたとしたら、何ともお気の毒なことである。今はただ、ご冥福をお祈りするしかない。

 なお、岑成の子としては、永安(ながやす)・安良(やすなが)・安基(やすもと)の三人が知られるが、三人とも岑成に先だって承和十三年(八四六)に清原真人を賜って臣籍に降下しているが(『続日本後紀』)、その後は史料に見えず、五位以上に上らなかったことを示している。以後、この系統の官人は史料に姿を表わさなくなる。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)