(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、讃岐永直です。
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「善愷訴訟事件」にも関わる
讃岐(さぬき)氏という珍しい氏族出身の学者を紹介しよう。『日本三代実録』巻六の貞観四年(八六二)八月是月条は、永直(ながなお)の卒伝を載せている。
従五位下守大判事行明法博士讃岐朝臣永直が卒去した。永直は、右京の人である。本姓は讃岐公(きみ)。讃岐国寒川郡の人である。幼くして大学に学び、好んで律令を読んだ。性は甚だ聡明で、一たび聴けば暗誦した。
弘仁(こうにん)六年、明法得業生に補され、但馬権博士となった。数年の後、奉試に及第し、天長(てんちょう)七年春、明法博士となった。同年夏、右少史となった。明法博士は元のとおりであった。次いで左少史に転任した。天長八年、勘解由判官となった。
承和(じょうわ)元年正月、外従五位下を授けられ、大判事となった。明法博士は元のとおりであった。この年、勘解由次官となった。承和三年姓朝臣(あそん)を賜った。本居を改めて右京に貫附された。すぐに出雲権介となり、阿波権掾に遷任された。
承和十三年、法隆寺僧善愷(ぜんがい)が太政官に赴いて檀越少納言登美(とみ)真人直名(なおな)に罪が有るということを告発した。右少弁伴(とも)宿禰善男(よしお)は参議右大弁正躬(まさみ)王たちと執論・差蹐した。善男は弁口が便侫で、仁明(にんみょう)天皇の寵遇を蒙っていた。遂に正躬王たちが善愷の違法の訴えを許容したと誣告して、その官爵を免じた。先に明法博士たちに正躬王たちの罪を断じさせた際、永直は権勢に畏れ憚って、あえて正言しなかった。しかし、律の私曲は相待つという義を執って、大いに善男の意見に逆らった。
嘉祥(かしょう)元年、刑部少輔和気(わけ)朝臣斉之(ただゆき)が大不敬を犯し、絞罪に当たった。詔して罪一等を減じ、伊豆国に流された。永直は斉之の罪に坐して、佐渡国に配流された。嘉祥二年二月、仁明天皇が崩御し、文徳(もんとく)天皇が踐祚した。翌年、勅して特に恩免に従い、召されて本位の外従五位下に復された。斉衡(さいこう)二年、明法博士となった。
斉衡三年、老いて骸骨を乞うた。再三、陳請して、その後に許された。ところがなお、明法博士は停められず、家に帰って休んだ。天安(てんあん)二年、文徳天皇が勅して云ったことには、「明法博士(永直)は、これは律令の宗師である。その年齢が老人となって正説が伝わらないことを惜しむ。宜しく好事の諸生は、その里第に赴いて、善説を受読させるように」と。永直は私第に閑臥して、律令を生徒に授けた。式部省は門庭に就いて講が終わる礼を行なった。法家はこれを栄誉とした。寿命によって卒去した。時に行年は八十歳。
永直は官吏となってから、ここに晩節に及び、勘解由次官を歴任し、判决の道についてよくその趣旨を究めた。その勘解由使となった者は、今でもなお、基準とした。かつて大判事興おき原敏久(はらのとしひさ)や明法博士額田今人(ぬかたのいまひと)たちは、刑法の難義数十事を抄出し、大唐に遣わして問おうとした。永直はこれを聞き、自ら請いてその義を詳しく解いたところ、歴年の疑滞は、一時に氷解した。唐に遣わす問いは、これによって中止となった。長子の(讃岐)時人(ときひと)は父永直の業を伝え、姓を和気朝臣と改めた。少女は光孝(こうこう)天皇の更衣となり、源(みなもと)皇子旧鑑(もとみ)を産んだ。
永直は讃岐国寒川(かんがわ)郡を本貫地としていた。現在の香川県さぬき市で、高松市の東隣である。ただ、祖父の広直や父の浄直も明法博士であったとあるから(『政事要略』)、早くから都に進出していたのであろう。讃岐氏は讃岐国造の家柄で、寒川郡の郡司を務めていたが、永直の父祖はそれに留まらず、都で明法道(律令法を講義した学科)の学者としての道を選んだのであろう。ただ、浄直は讃岐権介も兼ねていたから、地元とのつながりは持ち続けていたのであろう。
永直は延暦(えんりゃく)二年(七八三)に右京で生まれた。幼くして大学に学び、好んで律令を読んだ。甚だ聡明で、一たび聴けば暗誦したとあるから、羨ましい話である。
弘仁六年(八一五)に三十三歳で明法得業生に補された。天長七年(八三〇)に四十八歳で明法博士となり、右少史、次いで左少史を兼任した。翌天長八年(八三一)、勘解由判官となった。勘解由使というのは、国司の交替を監査する職である。
承和元年(八三四)に五十二歳で大判事となったが、明法博士は元のとおりであったとあるから、よほどの信頼を得ていたのであろう。また、勘解由次官に昇進した。後の勘解由使は、判决について、永直を基準としたという。承和三年には姓を地方豪族を示す公から、中央有力氏族を示す朝臣を賜り、本貫地を改めて右京三条二坊に貫附された。大幅な家格の上昇である。
承和十三年(八四六)、これまで何度も述べてきた「善愷訴訟事件」に際して、永直は正躬王たちの罪を断じる勘文を提出した。詳しくは小野篁(たかむら)の項を参照されたい。永直は権勢に畏れ憚って、あえて正言しなかったものの、律の私曲は相待つという義を執って、善男の意見に逆らった。これなどは明法家としての面目躍如といったところであろう。すでに永直は六十二歳になっていた。
この頃のエピソードであろうか、明法博士たちが刑法の意味がわからない数十事を唐に使者を遣わして問おうとしたところ、永直は自らその意味を詳しく解いたところ、疑義は一時に氷解し、唐への使者発遣は中止となったという。
また、天長十年(八三三)に撰述された『令義解』の撰者の一人で、『令集解』所引「讃記」の著者にも比定される(『国史大辞典』による。虎尾俊哉氏執筆)。
ところが、いいことは続かないもので、嘉祥元年(八四八)、和気斉之が仁明天皇に対する大不敬を犯して遠流に処された際、永直も斉之に連坐して、佐渡国に配流された。これも遠流であって、本来は死刑に相当する罪である。この年、六十四歳、佐渡での日々は身体に堪えたであろう。
しかし、翌嘉祥二年(八四九)に仁明天皇が崩御し、文徳天皇が踐祚すると、翌嘉祥三年(八五〇)、恩免されて入京し、本位に復され、斉衡二年(八五五)に再び明法博士となった。時に七十一歳。
律令の規定では、七十歳で致仕(引退)を請うことになっており、永直も斉衡三年(八五六)に致仕を上表した。再三の上表でこれを許されたものの、なお明法博士は停められなかった。天安二年(八五八)、文徳天皇が勅して、永直の正説が伝わらないことを惜しみ、明法生はその里第で受講するよう命じている。時に七十四歳。永直は私第で律令を生徒に教授した。貞観元年(八五九)には内位の従五位下に叙された。名実ともに中央貴族となったことになる。
しかし、寿命には勝てず、貞観四年に八十歳で死去した。長子の時人は永直の業を伝えたが、姓を讃岐朝臣から和気朝臣と改めた。地方臭を嫌ったのであろうか。女は時康親王の更衣となり、第九皇子旧鑑を産んだが、生母の地位から親王とはされず(この時点では時康親王の即位の可能性はきわめて低かった)、源氏に降下した。後に時康親王が光孝天皇として即位すると、旧鑑は大蔵卿に任じられている。