「応天門の変」の顛末

 貞観六年(八六四)冬、元々信と諍っていた大納言伴善男は、信を陥れる怪文書を発した。信・融・勤といった兄弟が共謀して反逆を起こそうとしているというものである。世間は騒然となり、善男はこれに乗じて、信の反逆は明らかであると称した。翌貞観七年春、信の家人で武芸に長けた者三人を地方に赴任させ、信の威勢は奪われた。

 この事件は善男によるでっちあげの可能性が高いが、反面、貞観八年(八六六)に起こった「応天門(おうえんもん)の変」の首謀者を善男とする『日本三代実録』ひいては良房の意向による文飾とも考えられよう。

 はたして貞観八年閏三月十日の夜、朝堂院(ちょうどういん)の正門である応天門が焼失し、棲鳳楼(せいほうろう)と翔鸞楼(しょうらんろう)が延焼した。善男は信が放火したものと右大臣良相に告発した。良相は良房の養子である基経(もとつね)に信の追捕(ついぶ)を命じたが、基経はこれを良房に報告した。良房は急ぎ参内して清和に報告し、信を弁護した。清和は信の赦免を命じた(『宇治拾遺物語〈うじしゅういものがたり〉』)。

 この場面を描いた『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』は平安末期に制作されたものとはいえ、良房に伴われて参内し、良房が清和に信の無実を奏上するのを東廂(ひがしびさし)でそっと聞いている顔面蒼白の信の姿、また自邸の寝殿(しんでん)の前庭に荒薦(あらこも)を敷いて天道(てんどう)に無実を訴える信の姿は、いかにも元皇族の貴公子を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 この間の過程で、良房には八月に、「太政大臣に勅し、天下の政を摂行(せっこう)させよ」との勅が下った(『日本三代実録』)。一方、罪を免れた信は門を閉じて出仕せず、貞観十年(八六八)、失意を紛らわせようとして、摂津(せっつ)国に狩猟に出かけたが、小鳥を追って落馬し、深泥(しんでい)に落ち入り、救い出されていったんは蘇生(そせい)したものの、心神恍惚(しんしんこうこつ)としたまま数日後に死去した。五十九歳であった。

 信の子は、四位に三人(恭・平・有)、五位に六人(叶〈かなう〉・謹〈すすむ〉・好〈このむ〉・保〈たもつ〉・任〈まかす〉・昌〈まさる〉。謹を除き従五位下)、それぞれ上ったのみであり、謹が民部大輔、有が右馬頭に任じられた以外は、いずれも地方官で終わっている。左大臣の子としては、これは驚くべき事態と言えよう。三世源氏の世代は、二人しか動静が知られず(四位に昇った三人の子の名も明らかでない)、その没落は言うまでもない。

 嵯峨の皇子の世代では、三人が大臣、五人が議政官に上っているものの、孫の世代では、七人が議政官となっているが、大臣に上った者はいない。その次の世代だと、参議が一人いるのみである。これは、世代が降ると、その時々の天皇との血縁が薄くなり、ミウチ意識が薄れることによる必然的な結果なのであった。平氏と違って、源氏は歴代の天皇の子孫が賜姓されており、歴代の天皇は自分の皇子や兄弟の源氏を優遇したためである(倉本一宏『公家源氏』)。

 中でも子の世代に早くも没落している信の子孫の凋落は、際立っていると言えよう。やはり信自身の事蹟の少なさと、二度にわたって政変に巻き込まれたことが影響しているのであろう。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)