多賀城政庁跡 写真/倉本 一宏(以下同)

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、坂上当道です。

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坂上田村麻呂の孫

 坂上氏の官人も初めてであろうか。『日本三代実録』巻十四の貞観九年(八六七)三月九日己酉条には、坂上当道(さかのうえのまさみち)の卒伝を載せている。

前陸奥守従五位上坂上大宿禰当道が卒去した。当道は、右京の人である。祖父は田村麻呂(たむらまろ)。田村麻呂は傑出して異彩を放ち、忠実にして剛直であり、志は正しかった。東夷を討伐して、軍功は世に広まった。官は大納言に至り、従二位を贈られた。父広野(ひろの)は右兵衛督となり、爵位は従四位下勳七等であった。当道は幼くして武事を好み、弓馬に習熟して、最も射が得意であった。また才調が有った。

承和(じょうわ)年間、内舍人となった。正月、大射の礼を行なうに当たり、五位以上の者が一人、足りなかった。その時、詔があって、当道でその数を満たした。未だ幾くもなく、右近衛将監となり、累進して左兵衛・左衛門二府の大尉となった。

斉衡(さいこう)二年、従五位下を授けられ、右衛門権佐に拝任され、検非違使に補された。当道は法による処断が公平で、刑罰は厳しくなかった。事が道理に背いていれば、権貴の者といっても、未だ必ずしも媚びを売って容赦することはなかった。天安(てんあん)の初年、左近衛少将に遷任された。貞観(じょうがん)元年、出てて陸奥守となり、常陸権介を兼ねた。その年の冬、従五位上に加叙された。

任期が既に終わり、新任の者を待つこと四年、任国にいたこと九年にして卒去した。時に行年は五十五歳。当道は家に廉正を行ない、財を軽んじて義を重んじ、在任中は清理の評判が有った。国内は肅然として、公民も蝦夷も安んじた。住居は貧しく財産はなく、棺に収めるに臨んでも、所有しているのは布衾一条のみであった。しかも遺愛されたことは人に在って、今に至っても偲ばれている。

 坂上氏は、後漢の霊帝(れいてい)の子孫を称する渡来系氏族である。実際は阿智使主(あちのおみ)を祖と称し、大和国高市郡に居住した東漢(やまとのあや)氏の枝族であった。天武(てんむ)元年(六七二)の壬申の乱には、大海人(おおしあま)王子(後の天武天皇)側の人物として坂上国麻呂(くにまろ)・坂上熊毛(くまげ)・坂上老(おきな)が見える。当道はこの老の子孫である。

檜隈寺跡・於美阿志神社

 坂上氏は橘奈良麻呂(ならまろ)の変や恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧した苅田麻呂(かりたまろ)や、「蝦夷征討」の征夷大将軍田村麻呂らの武将を出し、子孫には陸奥鎮守府将軍に任じられた者も多いなど、軍事貴族として活躍した。田村麻呂の姉妹である又子(またこ)は桓武(かんむ)天皇の宮人、田村麻呂の女の春子(はるこ)も桓武天皇の妃となって高津(たかつ)内親王を産むなど、後宮にも勢力を伸ばした。

 後世には、是則(これのり)・望城(もちき)・明兼(あきかね)など、勅撰集の作者となった歌人や、範政(のりまさ)・兼成(かねしげ)・明基(あきもと)など明法博士として活躍した官人もいる。

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 当道は、広野の子(『坂上系図』では浄野の子としている)として、弘仁四年(八一三)に生まれた。幼い頃から武事を好んで弓馬に通じ、特に弓を得意とした。また才気も兼ね備えていた。父祖以来の伝統を継いでいたことになる。

 承和年間(八三四~八四七)に内舎人となったとあるから、二十歳代のことであろう。ある年、正月の大射の礼において、五位以上の射手が一名不足した際、当道は内舎人でまだ六位であったが、仁明(にんみょう)天皇の詔によって、特に射手に加えられた。

 ほどなく右近衛府の判官である将監に任じられ、左兵衛府や左衛門府の判官である大尉を歴任した。斉衡二年(八五五)に四十三歳で従五位下に叙爵されて貴族の仲間入りをした。すぐに右衛門府の次官である権佐に任じられ、検非違使佐に補された。天安二年(八五八)には左近少将に任じられ、馬寮の官人や近衛を率いて、京中の群盗の追捕を行なっている(『日本文徳天皇実録』)。

 すべて父祖以来の武官としての仕事であるが、貞観元年(八五九)には四十七歳で陸奥守と鎮守府将軍に任じられた。これも父祖以来の伝統と言えようか。この年に従五位上に昇叙している。

 しかし、当道は陸奥守の任期が終わっても、都に帰ることができなかった。卒伝には明記されていないが、前任の陸奥守であった文室有真(ふんやのありざね)との解由(国司交替の引き継ぎ)が期限内に完了できず、貞観三年(八六一)になって公廨を没収されている。有真も公事稽留罪を科せられて罰せられたが、当道は代任の者を待って陸奥国に留まらざるを得なくなり、在国は九年にも及んで、ついに陸奥で死去することになったのである。

 なお、陸奥守の後任は、ようやく貞観九年正月十二日に良岑経世(よしみねのつねよ)が任じられた。この年の三月九日に当道が死去したというのも、後任が決まった安堵感によるものであろうか。いかにも剛直な当道らしい。

 卒伝によれば、当道は、検非違使としては処断を平等にし、刑罰は厳しくしなかった。道理に背くことがあれば、貴顕の者であっても、容赦しなかったという。権力を行使する者は、こうあってほしいものである。

 家行は廉正であり、財産より義を重んじ、任にあっては清理と称され、支配している領域内は粛然として、公民も蝦夷も満足していたという。また、貧しく財産はなく、亡骸を棺に納める際に所持していたのは布衾一条のみであったという。

 まことに天晴れな官人であったと賞することができよう。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)