「四位以上の者を殴傷するような事を聞いたことがない」

 この事件当時、直幹は式部省大学寮に所属する文章博士であった。当時は今と違って日本に大学は一つしかなく、文章博士というのも、定員は二名、今のように誰でもなれそうな文学博士とは違い(それでも論文博士は大変であったが)、日本を代表する立派な学者なのであった。

 その直幹が、式部省から退出した際、美福門の前に於いて雑人の為に殴打されたというのであるから、町中で起こる暴力沙汰とは違って、由々しき事件であった。ただ、その日のうちに容疑者が奈癸忠雅と特定されているから、この男も大学寮に関係する人物であり、何らか直幹との間にトラブルを抱えていたことが推察される。

 さて、翌十九日の『日本紀略』では、次のように忠雅の逮捕が記録されている。

直幹朝臣が指摘し申した下手人の式部省史生奈癸忠雅を捕獲した。

 どうやら直幹とは旧知の間柄であったらしく、直幹が忠雅を犯人と名指ししたようである。翌日には逮捕されていることから、その居所も知れていたのであろう。

 奈癸氏というのは、ほとんど史料に現われないが、奈良時代の皇親に奈癸(なき)王(奈貴王とも)というのがいるから、この奈癸氏に資養された王族であった可能性が高い。その他、『類聚符宣抄』に延喜(えんぎ)二十一年のこととして「内膳権令史奈关良貞(よしさだ)」、天慶(てんぎょう)六年と同八年のこととして「史生奈关元護(もとよし)」という人物が見えるから、下級官司の下級官人として、細々と活動していたのであろう。この忠雅は元護の一世代後の人物であるが、何らかの血縁があったかもしれない。

 さて、この事件が古記録に現われるのも、この十九日の記事である。『村上天皇御記』の十九日条(『扶桑略記』による)には、次のような逸文が残されている。

検非違使右衛門府生穂積良氏(ほづみのよしうじ)と石生秋郷(いわぶのあきさと)が、内裏に参った。蔵人(藤原)雅材(まさき)を介して、直幹朝臣の申詞の日記を奏上させた。また、損傷した箇所が甚だ多く、辛苦は極まり無かった。まずは指し示した下手人を捕獲したことを申させた。勅して云ったことには、「未だ嘗て四位以上の者を殴傷するような事を聞いたことがない。早く直幹の申した趣旨に随って、勘糺するように」と。また、雅材に命じて、医薬を直幹朝臣に下賜して、救療を加えさせた。

 天皇がこの程度の事件に対して、朝廷の公式記録である外記日記を原史料とした『日本紀略』や『扶桑略記』よりも詳細な記事を記録しているというのも驚きであるが、こんな事件にまで関与しなければならない平安時代の天皇がいかに大変であったか、想像に余りある。今と違って、いかにも学問や大学を重要視していた村上天皇らしい日記である。

 この記事では、まず直幹の申詞の日記が、検非違使・蔵人を介して奏上されたことを記している。これは事件が発生した際に検非違使が記録する事発日記、また問注日記と呼ばれるもので、後の裁判の証拠となる。村上天皇はこれを丁寧に読んだことであろう。

 ついで下手人を捕獲したことが申上された。注目すべきは、その後に記されている村上天皇の言葉と、事後処置で、まず直幹の申状に随って勘糺することを命じ、ついで医薬を直幹に下賜して救療を加えさせることを命じている。

 注目すべきは、「未だ嘗て四位以上の者を殴傷するような事を聞いたことがない」という言葉で、平和な平安京の様子や、貴族社会の頂点としての天皇の責任感がよく窺える。

 やがて日本は、天皇や上皇が武士を味方に引き入れて、清浄なはずの平安京を舞台に戦乱を引き起こす時代を迎えることとなる。

 なお、事件から一箇月ほど経った『日本紀略』五月二十一日条には、次のような後日譚が記されている。

今日、式部史生忠雅を拷訊させた。七位を帯びているので、本来ならば拷訊することはできない。しかしながら、式部史生山辺履道(やまべのはきみち)の□によって、拷問することとなった。この履道は、試の詩を摺り改めたのである。

 欠字があって意味が取りにくいが、どうも山辺履道なる者が、式部省試の答案を改作したということで、忠雅はその同僚として、実行犯であったものかもしれない。その一件がからんで、省試の責任者であろう式部大輔直幹に暴力を振るったらしいという背景が浮かびあがってくるのである。式部省の長官である式部卿は、通常は親王が任じられていて、大輔が実質上の長官である。

 その後も忠雅は拘禁されていたようで、『日本紀略』九月二十日条には、次のように見える。

式部史生忠雅は拷問の間、検非違使の官人は、或いは拘禁を脱すべきであると申し、或いは脱すべきではないと申している。そこで明法家に勘申させた。

 明法家の勘申は遅々として進まなかったようで(やる気がなかったのかもしれない)、二年後の応和(おうわ)二年(九六二)の九月十四日条には、

明法博士実憲が式部史生奈癸忠雅が犯した罪に赦を適用するか否かの文を勘申した。

と見える。この勘申の結果は史料に現われないが、どうも忠雅は獄に入れられたようである。

 何と二十三年後の寛和(かんな)元年(九八五)というから、花山(かざん)天皇の時代になっていた年の七月十日条に、

炎旱によって、左右獄にいる軽罪の嫌疑者三十三人を原免した。この中で、式部丞西市令史奈癸忠雅が免じられた。

と記録されているのである。軽罪の嫌疑者というだけで、これほど長期間にわたって収獄されていていいものだろうかと疑問を感じるが、ともかく、忠雅は晴れて世間に出て来たことになる。その後は史料から姿を消すが、事件から二十五年、すでにかなりの年齢に達していたことであろう。せめて平穏な老後を過ごしてほしいものである。

 なお、橘直幹の方は、傷もすっかり癒えたらしく、天元五年(九八二)七月までは生存在京が確認され、その間、天徳(てんとく)三年(九五九)内裏歌合には、菅原文時(ふみとき)・源順(したごう)・大江維時(これとき)とともに闘詩を行ない、『新猿楽記(しんさるがくき)』にも大江匡衡(まさひら)・大江以言(もちとき)・大江文時(ふみとき)と比肩する者とされるなどの名声をほしいままにした。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)