摂津国須岐駅故地 写真/倉本 一宏
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が12月17日に発売します。
藤原南家の右大臣・三守の子孫
藤原子高(さねたか)と聞いて、「ああ、あの人か」といったい何人の方が思い付くであろうか。彼の名を後世までわずかに伝えている「事件」は、後に述べることとして、まずは古記録に登場する記事を挙げてみよう。『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』の応和(おうわ)元年(九六一)正月七日条(『柱史抄(ちゅうししょう)』による)に見える臨時叙位の記事である。
左大臣(藤原実頼[さねより])が(源)延光(のぶみつ)朝臣に申し送って云ったことには、「讃岐介(藤原)子高は、前任の内記を賞されるよう、昨日、諸卿が定め申した。そこで奏を執らせて、宜しくこのことを申すように」と。命じたことには、「公卿の定によって、加叙させよ」と。大臣が申させたことには、「・・・子高の位記は、今日、位記を作成して加えさせます。所司はすでに退出しました。召させている間に、日はだんだんと暮れようとしています。まずは節会を始め行なっては如何でしょう」と。命じさせて云ったことには、「節会を始めた後に、どうして位記を作成できようか。こうなれば、後日に作成させるように」と云うことだ。
子高というのは、南家の三守(みもり)流である。三守は右大臣に上ったが、それから四世代も末の子高の世代には、議政官になる者も出なくなっていた。南家の主流は学者になった者もいたのだが、三守流はその道にも進めず、中下級官人として生き残っていた。
子高が古記録に登場するのは、この記事と、同じく『村上天皇御記』の翌八日条(『柱史抄』による)に、
左大臣が延光朝臣を介して、申させて云ったことには、「今日、子高の位記を作成させます」と云うことだ。
と見える位記作成の記事、それに『小右記(しょうゆうき)』に応和の頃の先例として、天元(てんげん)五年(九八二)二月十九日条に、
讃岐介(藤原)永頼(ながより)が、「権(ごん)」の字を給わるよう、奏上させる事が有った。「これは前々の守や介には『権』の字が有りました。子高朝臣を介に任じました。任中、利はありませんでした。その後、国司に『権』の字が有りました。そこで申請するものです」ということだ。天皇がおっしゃって云ったことには、「先ず『権』の字を加え、任符を作成させるように。その後、直物に載せるように」ということだ。そこで左大臣に伝えた。
という藤原永頼の奏上の中に引かれている記事しか存在しない。
これだけならば、子高は中務省の内記を務め、その功で国司にも任じられたという、よくある中下級官人としか思えないのであるが、もう一つ、子高が古記録に登場するのが、『村上天皇御記』の二十二年前に摂政藤原忠平が記録した『貞信公記(ていしんこうき)』(『貞信公記抄(ていしんこうきしょう)』)の天慶(てんぎょう)二年(九三九)十二月二十六日条に、
子高朝臣の従者、馳せ来たりて云はく、「子高、摂津国に於いて、(藤原)純友(すみとも)の兵士の為に虜はる」と云々。之に因りて、公卿を招き、行なふ所の事を定めしむ。
と記されている記事である。あの天慶の乱において、藤原純友の兵によって捕らえられ、公卿がその対策を議定したというものである。この記事を挙げれば、「ああ、あの人か」と思い出す方もいるであろう。この部分の『貞信公記』は『貞信公記抄』という抄出本なので、詳しい事情はわからないが、この事件を記録した他の史料を見てみると、子高はとんでもない目に遭っているのである。
まず『日本紀略(にほんきりゃく)』天慶二年十二月二十六日条では、次のように子細が記録されている。
備前介子高が摂津国須岐駅に於いて、前伊予掾藤原純友〈海賊の首領である。〉の為に囲まれた。矢を放って合戦したとはいっても、随兵の数が少なく、子高は降伏を乞うた。そこで純友は子高を縛り、子高の太郎(たろう)は賊の為に殺されてしまった。また、播磨介島田惟幹(しまだのこれもと)朝臣が、この兵の為に虜掠された。
純友の士卒が摂津国須岐駅で備前介藤原子高を取り囲み、矢を放って合戦となった結果、子高を縛して子高の子を殺害したというのである。また、播磨介も虜掠されたという。
この須岐駅というのは、『本朝世紀(ほんちょうせいき)』には「藁屋駅家」とあり、これが『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)』に載せる葦屋駅の誤記と考えられることから、葦屋駅に比定するのが妥当とされている。津知遺跡(現兵庫県芦屋市津知町)と東に接する深江北町遺跡(現神戸市東灘区深江北町)から遺構が発見され、深江北町遺跡からは「駅」銘墨書土器や「(葦)屋驛長」と記された木簡が出土している。
なお、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には『純友追討記(すみともついとうき)』という書が引かれているが、その史実性については慎重な検討が必要である。それによると、純友ははるかに平将門(まさかど)の謀反を聞き、乱逆を企てて上京しようとした。一方、この頃、京都で連夜、頻発していた放火が純友の士卒の仕業であるという風聞を聞いた子高が、それを奏聞しようとして妻子を連れて上京しようとしたところ、純友がそれを聞いて藤原文元(ふみもと)に追わせ、子高を虜にしたというのである。文元は子高の耳を斬り鼻を割き、妻を奪って連れ去ったとある。
この史料が史実を伝えているのであれば、子高の密告に対する口止め、あるいは備前国(現岡山県)での受領子高の弾圧に対する文元の怨恨による報復という筋書きになるのであるが(下向井龍彦『武士の成長と院政』)、はたしていかがであろうか。
この事件の背景に、もともと子高と惟幹に、文元との利害対立があり、ともに京に召喚されて太政官で対決させられようとしていたところ、純友が文元に味方して、自力で解決しようとしたものという考えが、もっとも説得的である。こうなると、将門の武蔵・常陸国府への介入と共通する状況であり、将門も純友も、忠平の家人集団の一員で、その地域での乱悪の中核となり、一方では調停者ともなっていたと考えられよう(小林昌二「藤原純友の乱再論」)。
この事件に対する政府の対応は、きわめて緊張に富んだものであった。先にも述べたように、十二月二十九日には将門謀反の報も届いており(『貞信公記抄』)、まさに日本国の東西で兵乱が同時に勃発したのである。『本朝世紀』が二人の共謀を語っているのも、謂われのないことではなかったのである。
いずれにしても、子高は若い頃に天慶の乱に巻き込まれ、純友の兵に襲撃されたのである。この時に何歳であったかは不明であるが、何とか難を逃れて上京し、また下級官人として勤務を続け、この応和元年に讃岐介に任じられたということになる。
まさか本当に「耳を斬り鼻を割き、妻を奪」われたとは思えないが、大変な目に遭ってからも中央で細々と実務官人を務め、めでたく叙位に預かったとなると、他人事ながらよかったなあと思えてくる。
若い頃の苦労が、その後の勤務に影響したかどうかは明らかでないが、この後は子高の動静は史料に見えない。せめて穏やかな老後を過ごしてもらいたいと願うばかりである。
なお、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』には、子高の官位は、「越後・三河・備前・伊賀・山城・讃岐等の守」「従四位下」「中宮少進」と記されているが、本当にそれほど出世したかどうかは不明である。『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』には承平(じょうへい)四年に越後守とあるが、他の国については傍証史料がない。ちなみに、「母藤原氏」とも記されている。『尊卑分脈』には、子高の子として、長忠(ながただ)・為政(ためまさ)・長範(ながのり)の三人の名が挙げられている。
ただし、為政に大学助という官名が記されている以外は、長忠は官位の記載がなく、長範も「散位」(位階のみあって官職のない者)と記されている。いずれも母は不明とある。それだけ没落していたということなのか、まさか長忠は賊の為に殺されてしまった「太郎」だったのであろうか。この三人の子の名前は、一人も見えない。







