京都御所 写真/hana_sanpo_michi/イメージマート
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(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。

*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本後紀』『続日本後紀』所載分​)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。​

火災が頻発していた平安京

 次は『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』を見ていこう。『村上天皇御記』は、『村上天皇宸記(むらかみてんのうしんき)』『天暦御記(てんりゃくぎょき)』ともいう。『醍醐天皇御記(だいごてんのうぎょき)』とともに二代御記、さらに『宇多天皇御記(うだてんのうぎょき)』を加えて三代御記と称される。元は三十巻程度あったものと推測され、『醍醐天皇宸記』とともに内裏清涼殿(せいりょうでん)の日記御厨子(にっきのみずし)に保管されていた。

『権記(ごんき)』によれば寛弘(かんこう)元年(一〇〇四)に「村上御記抄(むらかみぎょきしょう)」が作られていたことがわかり、寛弘六年に一条院(いちじょういん)内裏が焼亡した際に二代御記も焼失し、翌年から藤原行成(ゆきなり)が十巻分を書写して献上しているが(『権記』)、完全な補写はできなかったらしく、やがて伝写本も次第に散佚(さんいつ)し、応仁(おうにん)以後の動乱の間に失われてしまった。

 しかし、宇多・醍醐両天皇の御記とともに政務・儀式の先例故実(こじつ)を徴すべき重要な記録として儀式書(ぎしきしょ)や公家の日記その他に数多く引載されたため、天慶九年(九四六)から康保四年までの多くの逸文(いつぶん)が知られている。

 すべて逸文なので単純に計測はできないが、現在判明している逸文八〇三条は、訓読文で一二万六一七〇字である(一条あたり平均一五七字)。

 なお、この連載の最初の蹴鞠の話で述べた『醍醐天皇御記』の二百六度が平安時代記録かというと、さにあらず、『村上天皇御記』天慶九年(九四六)月日不詳条(『西宮記』による)には、「二百七度、揚げて墮ちなかった」とあるし、天暦七年(九五三)月日不詳条(『西宮記』による)には、(源)博雅(ひろまさ)・(源)重光(しげみつ)・(源)保光(やすみつ)・(藤原)兼通(かねみち)・信孝(のぶたか)・(紀)仲秀(なかひで)・世忘(せぼう)・世珍(せちん)・正生(まさき)・是真(これざね)・春延(はるのぶ)に蹴鞠を行なわせたところ、何と「五百二十度、揚げた。堕ちないのを限りとした」とある。現代のサッカー選手でも、これだけ揚げ続けられるものであろうか。

 閑話休題、ここでとりあげるのは、山城(やましろ)国乙訓(おとくに)社の祝部真茂(はふりべのさねしげ)という男である。『村上天皇御記』天暦(てんりゃく)七年(九五三)二月十二日、神祇官が焼亡した。二月十二日条(『中右記(ちゅうゆうき)』『扶桑略記(ふそうりゃくき)』による)には、

丑剋、藍薗(あいぞの)町に出火が有った。延焼して神祇官(じんぎかん)に及び、後庁(ごちょう)一宇(う)が焼亡してしまった。左少将(さしょうしょう)(藤原)国紀(くにのり)を遣わして、その火を防ぎ止めた。

 とある。平安京は火災が頻発していたから、別に珍しいことではなかった。当時の建築は、瓦葺のものは寺院と一部の官衙(かんが)だけであって、基本的には木と土、紙によって造られていた。上級貴族の住む寝殿造(しんでんづくり)の建築は、床が地面から高い位置にあり、それぞれの部屋が広いことから、火が回りやすく、屋根を檜皮葺(ひわだぶき)にしたものだから、火の粉が飛んでくるとすぐに類焼した。

 しかも屋根がきわめて高い単層構造であるから、屋根に火がつくと、その消火がきわめて難しくなる。庶民の小屋(「小家〈こいえ〉」)の燃えやすさは、言うまでもない(倉本一宏『平安京の下級官人』)。なお、当時は撲滅(ぼくめつ)といって、文字どおり燃えている部分を濡れた布などでたたいて消すのが、主要な消火方法であった。

 この日、神祇官の後庁に火が燃え移ったということで、左少将藤原国紀を遣わして、その火を防ぎ止めようとしたが、なかなか止められるものではなかった。

 しかし、翌十三日条(『中右記』『扶桑略記』による)を最後まで読めば、勇敢にもこの火災を消し止めた者がいたのである。

(藤原)有相朝臣(ありすけあそん)を介して、左大臣(藤原実頼〈さねより〉)に、神祇官の火事の祟(たた)りを卜させる事、大祓(おおはらえ)を行なう事、失火(しっか)に遭った百姓(ひゃくせい)の賑給(しんごう)の例を、宜しく勘申(かんじん)するよう、また去る夜の失火に神祇官の高倉(たかくら)に登って火を撲滅した者に禄を下給させる事を命じさせた。左大臣は有相朝臣を介して、陰陽寮(おんみょうりょう)が択び申した大祓の日の勘文(かんもん)を奏上させた〈十四日か十九日。〉。改めて勘申させた。また、陰陽寮を介して、今夜、失火があった事、延焼して神祇官に及んだ事を占い申させた占文(うらぶみ)は、これを推しはかると、「怨(うらみ)を含む霊気(れいき)が行なったところ」と云うことだ。同じこの寮に命じたことには、「右、この失火の穢(え)は、同じく宜しくその雑物は、穢に触れたか否か、および延引(えんいん)の先例を勘申するように」と。左大臣が有相朝臣を介して、少外記御船傅説(しょうげきみふねのつきとき)が勘申した失火の際の百姓の賑給の例の勘文〈承和(じょうわ)九年七月十九日・寛平(かんぴょう)三年六月十九日・延喜(えんぎ)十年二月十九日・同十四年四月二日・同年五月二日に、この例が有った。〉、また勘申した、式日(しきじつ)が有る祭の日を延ばした時、後日に祭った例の勘文、神祇官が勘申した、園韓神祭(そのからかみのまつり)に用いた神宝(じんぽう)の装飾、および供奉(ぐぶ)する官人以下についての勘文、また勘申した、今夜の失火の際、高倉に登って火を消した者の交名〈きょうみょう/山城国乙訓社の祝部真茂。〉、陰陽寮が改めて択び申した大祓の日時の勘文〈今月二十日。〉を奏上させた。検非違使(けびいし)を遣わして、焼亡した民家を記し申し、前例によって米と塩を賑給させ、園韓神祭は後の丑(うし)の日に行なわせること、火を撲滅した者である真茂に禄を下給させること、また大祓の日は定めた日によることを命じさせた。

 火事も一種の穢(けがれ)であると認識しているのも興味深いが、「今夜の失火の際、高倉に登って火を消した者の交名」として、山城国乙訓社の祝部真茂の名前が挙げられている。交名というのは「多くの人の名を書きつらねた文書」のことであるが、一人の名前しか記されていないところを見ると、消火に当たったのはこの祝部真茂だけであったことが推察される。

 彼は山城国乙訓社の祝部とあるが、乙訓社というのは式内社の乙訓坐火雷(おとくににますほのいかずち)神社か長岡京市井ノ内の角宮(つののみや)神社とされている。いずれにしても、長岡京時代から存在する由緒ある神社の神官なのであろう。祝部というのは神主・禰宜の下の神官である。

 この祝部を姓とした真茂が、神祇官の高倉に登って火を消したとあるが、職務上の用事で平安宮に来ていたところ、たまたま火災に遭ったので、消火にあたったということであろう。高倉とあるから、かなり高い建築物だったはずであるが、こんな勇敢な人が偶然、平安宮に来ていたというのも、まことに幸運なことであった。

 なお、平安宮内裏は七年後の天徳(てんとく)四年(九六〇)に全焼してしまう。この時にまた真茂がいたらという思いに、村上天皇はいたったであろうか。天徳四年の内裏焼亡は、遷都以来初めての焼亡であるが、これを村上天皇が深く嘆いたことは、これも『村上天皇御記』に記されている。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)