毛利元就像

 歴史上にはさまざまなリーダー(指導者)が登場してきました。その中には、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか? また、リーダーシップの秘訣とは何か? そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

5歳で母、10歳で父と死別

 戦国時代の武将で、中国地方に覇を唱え、智将と呼ばれる毛利元就は、明応6年(1497)に生まれます。父は、安芸国の国人領主・毛利弘元。母は福原広俊の娘(弘元正室)でした。当時、毛利氏は、周防・長門国の大名・大内氏の傘下にありました。

 弘元には、元就の他にも子がおり、それが嫡男の興元(元就実兄)です。明応9年(1500)、弘元は僅か8歳の興元に家督を譲ります。そして自身は、幼少の元就を伴い、多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に隠居するのでした。

 ところが、永正3年(1506)、弘元は39歳の若さで死去してしまいます。この時、興元は14歳でしたが、真の意味で、独り立ちを余儀なくされます。大内義興から一字を賜り「興元」と名乗った彼ですが、永正13年(1516)8月、24歳で死没します。死因は「酒害」と言われます。打ち続く、近隣の国人領主との合戦でストレスがたまり、酒に溺れていったのでしょうか。

 毛利氏の家督は、興元の子・幸松丸が継ぐことになったのですが、まだ2歳の幼少。このように頻頻と当主が変われば、御家争いが起きてもおかしくはありませんが、その頃の毛利氏は庶子の坂氏や、その親族の志道氏がしっかりと補佐していたため、内紛は起きなかったと言われます。

 元就は前述のように、猿掛城にいた訳ですが、これまでの経緯を見ただけでも、少年期から波瀾に富んでいたことが分かります。元就が62歳の時に、嫡男の毛利隆元に宛てた書状の中には「我等は五歳にて母にはなれ候」とあります。つまり、元就5歳の時に実母(福原氏の娘)が死去したというのです。その後には「十歳にて父にはなれ候」という文が続くのです。これは父・弘元の死を意味します。

 そして元就11歳の時には兄・興元が大内氏に従い「京都」に上るのです。この時の心境を元就は「みなし子」(孤児)のようだったと振り返っています。そんな「孤児」の元就を「不便」(不憫)に思ったのが、父・弘元の側室「大かた殿」(大方殿)でした。

 大方殿は、豪族・高橋氏の娘であるとされます。同情した大方殿は、実子ではない元就を養育してくれたのです。当時、大方殿は未だ若年でしたが、弘元死去後は他の男性に嫁ぐことなく「貞女」として生涯を終えたとのこと。元就は興元が上洛している「三ヶ年」を大方殿に「取つき」過ごしたようです。元就と大方殿との親密さがよく分かります。