写真提供:共同通信社

 京セラと第二電電(現KDDI)の創業者であり、80歳でJAL再建を果たした稲盛和夫氏。従業員たちと車座になって語らい、現場を大切にしたリーダーシップが強い組織を鍛えあげたことはよく知られる。組織はリーダーの「器」以上のものにならないという考えから、謙虚さや情熱を求める独自のリーダー観は、26歳で京セラを創業した頃すでに育まれていた。本連載では、『一生学べる仕事力大全』(致知出版社)に掲載されたインタビュー「利他の心こそ繁栄への道」から内容の一部を抜粋・再編集し、稲盛氏が自身の人生と経営について語った言葉を紹介する。

 今回は、情熱をもって働いた松風工業を辞め、京セラを創業するまでを振り返る。

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2024年4月10日)※内容は掲載当時のもの

人間として何が正しいか

――特磁課だけは黒字を出していたものの、松風工業の社風は旧態依然としていたそうですね。

稲盛 ダラダラと仕事をし、残業代を稼ぐというのが常態化していました。そんなことをしたのでは、会社はますます悪くなっていく。特磁課もそういう風潮がありましたので、部下に「残業はするな。残業したらコストが高くなってしまう。コストを安く抑えることによって利益が出る。だから、残業は許さない」と言いました。

 管理職でもない、入社して1~2年の男がそういうことを言うもんですから、労働組合の幹部連中が「けしからん。よし、あいつを懲(こ)らしめてやろう」と。ある日、寮の部屋に数人が押しかけてきて、乱闘のようになったんです。

――ああ、そんなことがあったのですか。

 それで私は顔面に怪我をしました。翌日、その連中は「もう懲らしめたんで、きょうは会社には来ないだろう」と言っておったのに、私が包帯を巻いて会社に行ったもんですから、皆びっくりしていました。

 そのうちに、今度は組合の幹部連中が皆を巻き込んで、人民裁判を起こしました。碍子を梱包(こんぽう)する木の箱があるんですが、それを積み上げ、その上に私を乗せ、下のほうから激しく追及するという格好です。その時に、私はこう言いました。