大石内蔵助

 歴史上にはさまざまなリーダー(指導者)が登場してきました。その中には、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか? また、リーダーシップの秘訣とは何か? そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「士の守るところは唯、義である」

 大石内蔵助良雄(1659〜1703)は言わずと知れた「赤穂四十七士」のリーダーです。播磨国(兵庫県南西部)赤穂藩の家老として、本当ならば平穏無事な生涯を歩めたのでしょうが、元禄14年(1701)3月、それを打ち壊す出来事が起こります。

 上司である赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城内において、高家の吉良上野介義央に「遺恨あり」として刃傷に及んだのです。長矩は義央の殺害に失敗。殿中における刃傷はけしからんと言うことで即日切腹を命じられます。

 一方、斬り付けられ負傷した義央には咎めはありませんでした。藩主が不祥事を起こした赤穂藩は改易となります。赤穂城は開城となり、赤穂藩士は浪人になってしまいました。この赤穂城明け渡しに際しては当初、赤穂藩士の意見は紛糾していました。

 城を明け渡してなるものかと言う徹底抗戦を主張する籠城派(城にて殉死すべきという切腹論もありました)。開城するべきという恭順派。両派に分かれていたのです。

『名将言行録』(幕末の武士・岡谷繁実が著した人物列伝)には群臣が赤穂城中に会した際の模様と内蔵助の言葉が記されています。城中には3百余人が集まりますが、内蔵助は彼らに語りかけます。

「主(あるじ)が辱められたら臣死すという。私も死ぬ覚悟でいる。亡き先君(長矩)には舎弟の大学君(浅野大学長広)がおられる。大学君をもって先君の祀を奉じるべし。傾いたものを助ける責任は私にある。死をもって幕府に赦しを乞い、先君のために嗣(大学)を立てるべし。これを幕府が許さなければこの城と共に滅びんのみ」と。

 この内蔵助の意見に反対したのが家老の大野九郎兵衛でした。「城に拠って幕府に嘆願するのは良くない。叛名を得ることにもなろう。叛名を得ることは先君を辱めることに繋がる」と慎重論を唱えたのです。それに対し、内蔵助は「士の守るところは唯、義である。士でありながら義がないのは、最早、士と言えぬ。大節(守るべき大きな節操。君臣・父子などの間における節義)に臨んで逡巡するのは無恥も甚だしい。天下の人がこれを聞けばこう言うであろう。赤穂に人なしと。こう言われるのもまた先君を辱めることになろう」と反論するのでした。九郎兵衛は内蔵助の見解に従うことはできず、孤立を深め逐電することになります。