徳川家康(写真:Mary Evans Picture Library/アフロ)

 2023年のNHK大河ドラマは、タイトルが「どうする家康」と大河らしからぬユニークなものに決まり、早くも話題を呼んでいる。幼少期は人質生活を送った苦労人でありながら、征夷大将軍まで上り詰めた徳川家康。その波乱万丈の生涯がどんなふうに描かれるのか。偉人研究家の真山知幸氏は、「天下に手をかけたあとの家康の気苦労にも、考えさせられるものがある。大河ではぜひそこまで描いてほしい」という。『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)を上梓した同氏が、家康が豊臣家からいかに名実ともに権力を奪ったのか解説する。

秀頼に気を遣っていた家康

 天下分け目の大決戦──。そんなふうに呼ばれるせいか、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いをもって、豊臣から徳川へと政権がダイナミックに移行したと誤解されがちだが、実際のところは、そうすんなりといったわけではなかった。

 そもそも、関ヶ原の戦いは「徳川軍」と「豊臣軍」の決戦ではない。豊臣政権内で勝手なふるまいを行う家康に対して、石田三成が立ち上がった。いわば、「豊臣政権内の主導権争い」である。家康が勝利したところで、ただちに豊臣家の影響力がそがれたわけではなかった。

 そのため、関ヶ原の戦いに勝利しても、家康は大名たちに「領知宛行状」、すなわち領地を保証するというお墨付きは出せなかった。あくまでも「幼い豊臣秀頼に代わって政務をとる」という体で、西軍の諸将から領地を没収し、東軍の諸将にあてがうという論功行賞を行っている。

 家康が実権を掌握しつつあるのは確かだが、まだまだ油断できなかった。なにしろ、少なくなったとはいえ、秀頼は65万石の領地を持っているうえに、大坂城と莫大な富を有している。さらにいえば、秀吉を慕う諸大名の存在も、家康の頭を悩ませた。

 関ヶ原の戦いに華々しく勝利したあとも、家康は豊臣家にかなり気を遣いながら、慎重にことを進める必要があったのである。