「狸親父」と「我慢の人」、相反する2つのイメージがある徳川家康。そのイメージは、主に後世の書物によって生み出された。大阪冬の陣の原因の1つとなったとされる「方広寺鐘銘事件」。この事件における家康の描かれ方の変化とは? 歴史上の人物のイメージはこのようにして作られる──。歴史学者・呉座勇一氏の最新著書『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)から一部を抜粋・再編集してお届けする。(JBpress)

方広寺鐘銘事件はどう描かれたか

 徳川家康の悪名を高めたのが大坂の陣である。方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)を口実に豊臣家を挑発して戦争に持ち込み、大坂城の内堀の埋め立てなどの謀略によって豊臣家を滅ぼしたという認識が「狸親父」イメージを決定づけた。

 では、江戸時代、方広寺鐘銘事件はどう描かれたのだろうか。

 大阪の陣を描いた軍記物語のうち、古いものとして『大坂物語』があるが、『大坂物語』は、同事件に言及していない。「世上何となくささやく事共多かりければ」、徳川家康が豊臣家家老の片桐且元(かたぎり・かつもと)を召喚し、事態の収拾を命じた。ところが豊臣秀頼が且元を放逐したため、大坂の陣が起こったという。「世上何となくささやく事」とは、豊臣と徳川の戦になるといった噂が流れたということだろう。