岐阜駅前にある織田信長像 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

織田信秀と織田信長

 織田信長の父に、織田信秀がいる。正確な生没年は確言しがたいが、42歳で亡くなったのは間違いないようだ。命日は3月3日とも3月9日ともいう。

 さてこの信秀だが、大河ドラマ『麒麟がくる』で魅力的な人物に描かれたことで、興味を覚える視聴者も多かっただろう。信秀のことを知ろうと思ったら、信長研究で著名な故・谷口克広先生の『織田信秀』(祥伝社新書・2015)がもっとも手に取りやすい。

 特にこの本の面白いところは、信秀と信長を比較して、その共通点と相違点を探り出すところにある。そこで谷口氏は両者の共通点のひとつとして、居城の移り変わりの多さを挙げた。

信秀と信長の居城移転

 ご存知のとおり、尾張時代の信長は、勝幡から那古野に、そして清洲へ移り、小牧山へ入った。その後の美濃時代は岐阜を、近江時代は安土をそれぞれ居城に構えた。

 これと同様に父の信秀も、尾張国内に勝幡→那古野→古渡→末森(末盛)と、居城を転々としている。

勝幡城

 2代にわたってここまで居城を変えるのはとても珍しく、例えば信長時代の人物を見ると、上杉謙信は越後春日山城を拠点としたあと、拠点を移すことはなかった(一時期、鎌倉に居館を置くことも考えたがすぐに諦めた)。武田信玄も甲斐躑躅ヶ崎館から全く動かなかった。北条氏康は相模小田原城を、毛利元就は安芸吉田郡山城を使い続けた。

 彼らにはそれぞれ個別の理由があるが、国主として統治の中心地を安定させておくのが望ましいと考えたのだろう。軽々しく動かない方が秩序を安定させ、長期戦略を立てやすくなる。

 他方で、信秀・信長以外にも居城を移転した大名がいる。例えば徳川家康。家康は、三河岡崎→遠江浜松→駿河駿府→武蔵江戸→駿府へと頻繁に居城を変えている。また、豊臣秀吉も、近江長浜→播磨姫路→山城山崎→摂津大坂へと移転を繰り返している。なお、家康の父・松平広忠は、三河牟呂から岡崎へと1度ばかり居城を移したが、秀吉の父は城を持つ身分ではなかったので、どちらも自分の代だけ極端に城を変え続けたことになる。この点、信秀・信長父子と異なっている。

 するとなぜ、信秀と信長だけが2代にわたり、居城を転々としたのかという疑問が生じ、2人はほかの戦国大名と比べて、独特のセンスを持っていたのではないかとする結論が導かれることが多い。ただ、私はこの点、疑問に思うことがある。