フランシスコ・ザビエル

(乃至 政彦:歴史家)

宣教師が非難した日本の男色

 周防の大名・大内義隆には、キリスト教の宣教師ザビエルと対談した時に、男色(少年愛)をするものは下劣であると非難されて、激昂したという逸話がある。その出どころは宣教師のフロイスが書いた『日本史』である。今回はその真偽を探っていくが、その前にザビエルが義隆のお膝元である山口の町で辻説法をした時の記録を見てみよう。

すべての(仏僧には)破戒の相手となる少年がいて、そのことを認めたうえに、それは罪ではないと言い張るのです。世俗の人たちは僧侶の例にならって、ボンズ(=坊主)がそうするのだから、我々もまたそうするのだと言っています。(「フランシスコ・ザビエル書翰」)

 当時の日本人にはおせっかいな話だったらしく、ザビエルを「この人たちは男色の罪を禁じているよ」と嘲笑したという。

 だがやがてその努力は報われたらしい。ザビエルに同行していたヴァリヤーノは、のちに「日本に聖職者(=フロイスたち)の光が輝き始めてからは、多くの人々は、その闇(=男色)がいかに暗いものであるかを理解し始め」たと誇らしげに述べている。

『日本史』に見るザビエルと義隆の対談

 続けてフロイスの『日本史』の記述を追ってみよう。

 天文19年(1550)厳冬、宣教師として来日したザビエル一行は周防の山口という「富貴な町」についた。大内義隆の領地である。山口の「侍臣や御殿の豪華」さは群を抜いていたが、国主の大内義隆は「放恣な振舞いと奔放な邪欲とに耽っているうえに、彼は自然に反するかの恥ずべき罪にも身をやつしていた」という。「恥ずべき罪」とは、男色のことである。やがてザビエル一行は大内家臣の目に留まり、義隆のもとへと招かれた。

大内義隆

 義隆は対談に応じたザビエルに遠慮なく質問を投げかけ、ザビエルはそれぞれ丁寧に応答した。はじめのうちは穏やかな対談が続いたが、やがてザビエルが日本人の罪(男色)について語り出し、雲行きが怪しくなってきた。

「このようないやらしいこと(=男色)を行なう人間は豚よりも穢らわしく、犬やその他の道理を弁えない禽獣よりも下劣であります」

 義隆の顔色は瞬時に変わり、この場を立ち去るようザビエルに命じた。義隆は重臣・陶隆房と男色の関係にあったのだ。フロイスの記述によれば、「彼等(ザビエル一行)は王(義隆)に一言も返辞しなかった」という。一行は殺すよう命じられるかもしれないと危うく思いながらも、翌日には誰の許可も得ないまま、山口で布教活動を続けた。この逸話は宣教師の正義感と大内義隆のだらしなさを伝えるものとして、今も信じられている。

 しかし、実はこの逸話がとても怪しいのである。