埼玉・嵐山町にある源氏三代供養塔と源義賢の墓  C2リベンジ, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

(乃至 政彦:歴史家)

源義賢という男

 源義賢(みなもとのよしかた。生年不明)はエリート武人として、一族の期待を一身に担っていた。

 しかも若き日の義賢は、坂東に逼塞させられた兄の義朝(よしとも)を差し置いて、出世街道を進んでいた。義朝はこれからというところで、父の意向により、無位無官のまま在京の任を解かれ、坂東へ送られた。いっぽう義賢は、東宮(皇太子)の親衛隊長を勤めて、「帯刀先生(たてわきせんじょう)」の栄職に就いたのだ。

 これは兄の義朝が17歳になる頃のことである。義賢の年齢は不明だが、中学生程度とは思えず、16歳ぐらいだっただろう。ちなみに義朝は保安4年の生まれである。西暦でいうと1123年なので、「いい兄さん」の生まれと覚えるといいだろう(覚えたところで、学科試験に出ることはまずないが)。

 その兄が坂東武者として、土くさく生きなければならなくなったのに対し、弟は帝都を颯爽と立ち回る華やかな武人として周囲の目を惹く身となった。

 ところで兄が坂東へ移された理由は、その母親の身の上にあった。

 ふたりとも京都の公家を出自とする女性を母親に持ち、その縁と財が彼らを都の貴公子らしく育んでいたが、母親が別の女性だったのである。

 義朝と義賢は、異母兄弟だったのだ。

源義賢関係略系図① 制作/アトリエ・プラン(以下同)

義朝と入れ替わる義賢

 義朝の母親は、白河院の側近である藤原忠清の娘であった。しかし義賢の母親とその父親はマイナーな人物で詳しい素性がわかっていない。

 きっと義朝のほうが高貴な血筋であったのだろう。

 ところが白河院が崩御され、白河院に冷遇されていた藤原忠実(ふじわらのただざね)が政界に復帰することになった。やがて忠実は自身の娘を鳥羽院の妃として、大変な権勢を得ていく。そうすると当然、忠実と対立関係にあった元白河院派は、逼塞を余儀なくされる。

 ただし幸か不幸か、義朝と義賢の実父である源為義(ためよし)も、晩年の白河院からは冷遇されていた。ここで為義は意を決して、今をときめく忠実に祗候(しこう/忠勤の意味)することにした。為義の権力に対する嗅覚の鋭さと悪運の強さはたくましいものがあろう。

 重ねて為義はもう1つの決断をくだす。

 忠清の娘とその長男である義朝が京都にいては都合が悪い。だから遠ざけるのが望ましいと考えたのだ。忠実という新たな後ろ盾を得た為義は、早速ながら義朝を坂東へ送り、代わりに義賢を京都で出世させるための手筈を整えた。

 いきなり重責を課せられた義賢は迷惑に思ったかもしれないが、ここで取り乱す程度の人物なら、為義も義賢を義朝の代わりに選ぶことはなかっただろう。義賢自身も東宮の親衛隊長まで昇ることなどできなかっただろう。

 義賢の見栄えもかなりよかったに違いない。その容貌を伝える史料はないが、後述する理由から貴族受けする顔だちをしていたことと想像する。

 ここから義賢の運命が大きく動いていく。