(乃至 政彦:歴史家)
一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信が武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代の天皇の行幸から、織田信長、明智光秀、伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代の大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、一部内容を抜粋して紹介する。
城を拠点としていなかった平安武士
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の武士たちは、戦国時代の武士と違うところがたくさんある。例えば鉄炮が伝来していないので、飛び道具は弓矢が基本である。何千何万の足軽や雑兵がおらず、当然ながら御貸し具足や統一された衣装もない。背旗というものもない。長柄の先に刃物をつけた長刀(薙刀)はあっても、まだ槍(鎗)は開発されていない。
もちろんそれだけではない。かれら平安武士は、戦国時代の豪族級武士(大名や国人)なら誰もが持っているはずの城というものを持っていない。上総介広常のように広大な土地を持つ者ですら、長期防衛に耐える作りの城郭を持ってはいなかったのだ(その居館を城と呼ぶ説もある)。
そもそも城というのは、軍事拠点である。万里の長城など、障害物で敵の軍事行動を妨害するものである。日本における城は、戦争が起きると、急拵えで一時的に利用するため作られるものであった。それが中世後期の戦国時代になると、有力武士が恒常的に持つべき拠点となっていく。
では、日本の有力武士が当たり前に城主とされていったのは、いつからなのだろうか?