朝廷にとって宇治川ととも鎌倉幕府軍に対する防衛の要衝だった瀬田川。現在の滋賀県大津市の瀬田一帯も戦場となった 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
泰時の優しさや柔軟さ
承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は、鎌倉の北条義時(泰時の父)追討の命令を発します。承久の乱の幕開けです。
上皇挙兵の報告を受けて、鎌倉幕府では対策会議が開かれ、官軍を関東で迎え撃つか、上洛して討つかが議されますが、最終的には出撃論に決しました。義時は嫡男の泰時に上洛軍の総大将を命じます。
『承久記』(承久の乱について記述した鎌倉時代の軍記物語)によると、泰時は早急な出撃論には慎重だったようです。「これほどの大事、無勢(軍勢が少ない)でどうすることができましょうか。3日ほど出兵を延引し、片田舎の若党などを召し具すべきです」と主張したのでした。
しかし、幕府の政所別当(長官)を務めた大江広元の反対にあい、仕方なく、出兵の用意をしたといいます。ちなみに『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には、前述の泰時の主張は記されていません。父・義時の命令を受けて、従順に京都に向けて出撃した形になっています。が、鎌倉の邸を出立した際、泰時に従う軍勢は僅か18騎だったとされます(『吾妻鏡』承久3年5月22日条)。
ところが、数日のうちに、みるみると軍勢は膨らみ、幕府軍は全体で19万騎にもなりました(5月25日)。大軍勢は3方(北陸道・東海道・東山道)に分けられ、泰時は東海道を進軍することとなります。その途上には、父・義時から謹慎を命じられている武士(安東忠家)までが、泰時軍に加わってきました。
最初、泰時は「謹慎を命じられているお前を従軍させる訳にはいかぬ」と断りますが、忠家の「規則に従うのは、平時でのこと。命を捨てようと進発しているのだから、鎌倉にいちいち報告する必要はないでしょう」との「反撃」にあい、ついに従軍を黙認したのです。
当初、決められている事を守ろうとする泰時。この辺りなどは、泰時の真面目さが窺えます。後に御成敗式目(貞永式目。1232年制定。鎌倉幕府の基本法)の編纂を命じた人物に相応しい逸話だと感じます。
だが、最後には忠家の従軍を黙認しているところなどは、泰時の優しさや柔軟さというものが現れていると言えるでしょう。
官軍を打ち破りつつ、近江国(現在の滋賀県)にまで到達した泰時軍。そこに馳せ参じたのが、幸島行時でした。行時は長年、泰時と付き合いがあり、官軍に加勢せんとした親族を離れて、泰時軍に合流したのです(6月12日)。時に泰時軍は酒宴の最中。泰時は行時の姿を見つけると、大いに喜び、上座に座らせて、盃を与えたといいます。
また、息子の北条時氏に馬を引かせて、行時に与えたのです。更には、行時の家臣まで陣幕の側に呼んで、食事を与えます。泰時のこの「芳情」(親切な心遣い)を見た人々は、いよいよ、勇猛心を掻き立てられたようです(『吾妻鏡』)。泰時の人柄の良さというものが伝わってくる話ですね。






