大坂城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
足利義昭は秀吉と同い年
昭和36年(1961)生まれの筆者には、どことなく、どうしても抜けきらない「昭和気質」のようなものがあるのだと、平成生まれの若い人と接していると感じてしまうことがある。戦国時代にも、同じようなことはあったのではなかろうか。
戦国時代の定義は人によって違いがあるけれど、どう定義しても1世紀以上に及ぶから、人の世代で考えるなら、優に5〜6世代分のスパンがあったわけだ。だとしたら、世代によって生まれ育った環境や見ていた景色が違うことに基づく、価値観や行動原理の差異が生じたのではなかろうか。そうした観点から、豊臣兄弟の生まれた時代というものを考えてみよう。
小田原駅前に建つ伊勢宗瑞像。北条家創始者となる伊勢宗瑞はまた最初の戦国大名でもあった
兄・秀吉が生まれたのは天文6年(1537)、弟・秀長が天文9年(1540)で、二人は3歳しか違わないから、同世代に属していたことになる。この「天文」という年号は24年間も続いて戦国時代でも長い方であるが、その中でも天文1ケタ世代を探してみよう。
まず、二人の主君となった織田信長は天文3年(1534)生まれだから、秀吉よりは3歳上だ。徳川家康は天文11年(1542)生まれの天文2ケタ世代だから、おおむね同年輩に属するとはいえ、家康から見れば信長は7歳も上だがら、幼少期に知遇を得ていれば体育会系ノリで兄貴風を吹かされても仕方がない。
岐阜駅前に輝く織田信長像。徳川家康に対しては兄貴風を吹かせていたか?
全国に目を広げて、同世代の武将を探してみよう。兄弟の生涯に大きく関わってくる足利義昭が天文6年(1537)生まれで、ズバリ秀吉とタメである。他に有名人だと、北条氏政・今川氏真・長宗我部元親がいずれも天文7年(1538)生まれで、豊臣兄弟とバッチリ同世代になる。豊臣兄弟が、天文1ケタ世代の中では圧倒的な勝ち組となったことがわかる。
では、彼らが生まれた天文1ケタとは、どんな時代だったのか。京の将軍は第12代足利義晴だが、京やその周辺では戦が絶えず、将軍家が天下を統べているとはとてもいえない状況だった。ちなみに、第13代将軍の義輝と第15代の義昭は、義晴の息子にあたる。
天文1ケタの時期、京をめぐる混沌たる状況の中で暴れていたのが、木沢長政という武将だった。木沢長政はもともと畠山氏の被官だったが、細川高国から細川晴元へと仕える先を替えつつ、畿内一円で戦い続けた挙げ句、家康が生まれた天文11年に河内高屋城をめぐる戦いで討死している。
岡崎城に建つ徳川家康像。家康が生まれた天文11年には天下はすでに回復不能の混沌に陥っていた
どうも、この木沢長政という人物は、戦争のために戦争を求める「生まれながらの戦争屋」のように見える。あまり知名度の高い武将ではないが、卓越した戦術家だったことは間違いなく、畿内圏に本格的な戦国乱世をもたらした人物として、もう少し注目されてもいいだろう。
一方、秀吉が生まれた天文6年、関東では北条氏綱が扇谷上杉軍の反攻を退けて、扇谷朝定を川越城から松山城へと逐っていたし、中国地方では毛利元就が尼子経久と城砦の奪い合いに明け暮れていた。陸奥では前年の天文5年、伊達稙宗が分国法として名高い「塵芥集」を定めていたし、秀長が生まれた天文9年には、甲斐で全権を握った武田信虎が信濃の佐久地方に攻め入っていた。
東京都調布市の深大寺城。天文6年、扇谷上杉軍はこの城を足かがりに反攻を策したものの、北条氏綱によって河越城を逐われることとなった
要するに、各地で皆が好き勝手にやりはじめて、力ずくがまかり通るようになっていた時代なのである。京に公方様とか天子様という偉い人がいることは、誰でも知っているけれど、公方様が天下に号令したり、天子様の御威光で国が治まっているといった光景は、誰も見たことがない。そんな中で、管領だの守護だのといった肩書きにかかわらず、自力を蓄えた者が「自分の国」の自存自立を目ざしていたのが、天文1ケタという時代なのだ。
甲府駅前で空を睨む武田信虎像。武田信虎や北条氏綱・長尾為景・毛利元就らはさしずめ「分国自立」世代と呼べそうだ
また、日本に火縄銃が伝来したとされる1543年は天文15年だから、日吉丸こと秀吉は9歳、小一郎こと秀長は6歳の時だ。この新兵器が乱世に急速に広まってゆく時代に、兄弟は青年期を迎えたことになる。
[参考図書]豊臣兄弟の生まれた時代背景と戦国武将の世代との関係に興味のある方、拙著 『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。









