『孫子』の兵法の手ほどきを受けた家康

 先の風刺の歌にも見られるように、信長・秀吉・家康は「戦国三英傑」としてしばしば比較されるが、家康がほかの二人と比べて、突出していたのが読書量である。

 家康は今川家の人質として過ごした幼少期に、太原雪斎という臨済宗の僧侶から学問の手ほどきを受けている。雪斎はただの僧ではなく、今川家の軍師でもあり、今川義元を内政と外政の両面でサポートしていた。いわば、今川家の全盛期を築いたブレーンから、家康はみっちり指導を受けたことになる。年齢にして8歳から14歳の時期なので、読書習慣をつけるのに最適なタイミングだ。

『武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)』という江戸時代中期の史料によると、家康は雪斎から兵法を学んだという。13篇に及ぶ中国最古の兵法書『孫子』などで指導を受けたと考えられている。

「桶狭間の戦い」では当初、家康は今川軍の一員として、前線に食糧を送る役目を命じられていた。しかし、食糧を届けるべき場所は織田軍に囲まれている。そこで、家康は敵陣の1カ所に攻撃をしかけて、そこに敵軍が集中すると、その隙に食糧を運び込んだという。

『孫子』の「第五 勢篇」には「故に善く敵を動かす者は、これに形すれば敵必ずこれに従い、これに予うれば敵必ずこれを取る。利を以ってこれを動かし、詐を以ってこれを待つ」とある。敵を動かすための形、つまり餌をまくことで、敵を動かす。何かを敵に差し出すことで、それに食いつくものだ、という教えを家康が実践したのではないかとも言われている。

 その後、大将の今川義元が討たれると今川軍から離れて、岡崎城で独立を果たす。そのことはすでに書いたが、実はいきなり岡崎城に向かったわけではなく、いったん大樹寺に入った。

 すぐさま岡崎城に向かわなかったのは、今川勢がとどまっていたからだ。城内に入って今川勢とかち合えば、どうなるか。これまでどおり今川家に従って今後の行動について指示を仰ぐか、もしくは軍事衝突をして独立を勝ち取るかの2択となる。

 そこで家康は今川軍が立ち去るまで、大樹寺で時を稼ぐことにした。今川勢からすれば、総大将が亡き今、このまま岡崎城にとどまっている理由はない。早急に駿府に帰るべく準備をしているはず。そのときこそ動くべきだ……と、家康は冷静に判断を下していたのである。

 そんな家康の読みは的中し、今川勢は岡崎城から撤退し、駿河に立ち去っていった。家康はそれを確認してから、岡崎城に入っている。江戸時代初期の旗本の大久保忠教が著した『三河物語』によると、家康はこう言ったという。

「捨て城ならば拾わん」

 捨ててある城ならばもらおう。17歳にして恐るべき判断力だが、雪斎から学んだ兵法書『孫子』にある、このフレーズを家康は頭に描いていたのではないだろうか。

「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」

『百戦百勝』が最高にすぐれたものではない。最もいい方法は、敵兵と戦わずして屈伏させる戦い方だ──。

 つまり「戦わずして勝つ」。家康はいったん様子を見たことで、最もスムーズな方法で今川家の支配から脱して、岡崎城に返り咲くことができたのである。