上野の西郷隆盛像 写真/PhotoNetwork / PIXTA(ピクスタ)
歴史上にはさまざまなリーダー(指導者)が登場してきました。その中には、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。
いささかなりとも私心を持ってはいけない
幕末から明治時代初期の政治家・西郷隆盛は「維新の三傑」(大久保利通・木戸孝允)の1人として有名です。薩摩藩の下級藩士の家に生まれるも、藩主・島津斉彬に見出され、一橋(徳川)慶喜の将軍擁立運動などに奔走。斉彬の死後は国父・島津久光に疎まれ、沖永良部島に配流されます。その後、赦され、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争などを指導していくのです。
維新後は、参議として廃藩置県を断行するも、征韓論に関連する政争で下野。最後には西南戦争(1877年)に敗れ、自刃するという波乱万丈の生涯を辿った西郷隆盛。その西郷の遺訓集が『南洲翁遺訓』です。この『南洲翁遺訓』は、旧出羽庄内藩の関係者が、西郷から聞いた話をまとめたものです。
戊辰戦争において、庄内藩士は官軍(新政府軍)と戦いましたので、戦後、厳しい処分が下るものと思っていました。ところが庄内藩には寛大な処置が取られます。それは西郷の指示だったということが知られると、旧庄内藩の人々は西郷に傾倒。西郷と交流を深めることになるのです。
旧庄内藩の人々(旧藩士)らは、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになりますが、それが『南洲翁遺訓』(1890年発行)であります。『南洲翁遺訓』成立の経緯も、西郷の人柄やリーダーとしての振る舞いを示すものと言えるでしょう。
では、『南洲翁遺訓』(以下、『遺訓』と略記)にはどのようなことが書かれているのでしょうか。
『遺訓』の冒頭には、こうあります。「廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也」と。政治指導者は、天道を踏み行うものであり、いささかなりとも私心を持ってはいけないということです。その上で心を「公平」に持ち「正道」を踏み、広く「賢人」を選び、政治を執らせることこそ「天意」と説いています。よって、真の賢人であるならば、その人にすぐに自らの職を譲るくらいでないといけないと西郷は語ってもいます。
ところが、現代の政治家の有様はどうでしょう。一部ではありますが、70代や80代になっても、後進に道を譲らずに政治家で居続けている人もいます。心身共に頗る健康、頭脳明晰ならばまだ良いのですが、ヨボヨボで(これで大丈夫か)と国民が思うような人が政治家をやっている事例があるのです。そのような事例を泉下の西郷が見て、どのように思うでしょうか。






