源内が手がけた、『江戸男色細見 菊の園』

 男色は審美的な志向性を持つ文学でも数多く描かれている。

 井原西鶴の『好色一代男』には主人公・浮世之介が一生のうちに交わった人数は女性3742人、少年725人とある。

 当時、男色が珍しくない性行為であったことが覗える。

 西鶴はほかにも「男色ほど美なるもてあそびはなき」、「女(じょ)を捨て男(なん)にかたむくべし」と『男色大鑑』では男性同性愛を高唱している。

 十返舎一九『東海道中膝栗毛』では2人の主人公、喜多八は弥次郎兵衛の馴染の陰間だったとある。

 江戸時代を代表する文化人の一人・平賀源内は、特に男色に血道を上げた。

 当時、女郎がいる遊郭の実況紹介書として、『遊女評判記』とか、『吉原細見』という類いの本は数多く出版されたが、少年が売色を行う陰間茶屋が幕府公認のものではなかったため、『男色評判記』『陰間評判記』といった男色モノは見当たらない。

 そうした中で、自らがこの道を愛していた源内は、よほど精通していたものと見られる。

 水虎(かっぱ)散人のペンネームで、男色を菊の花に象徴した、『江戸男色細見 菊の園』、『男色評判記 男色品定』といった陰間茶屋案内書を出版するなど、平賀源内=「水虎散人」は男色の隠語にもなった。

 以下、源内の手がけた『江戸男色細見 菊の園』の序文である。

「江戸男色細見序

 餅好酒中の趣を知らず、上戸は又羊羹の甘きを憎む。寒暑昼夜かはるがはる時をなし、春の花、秋の紅葉何れを拾いづれをかとらん。男色女色の異なるも亦しからんか。吉原に細見あれば堺町、木挽町には四季折々の番付有て、世の人晋(あまね)くありがたがれとも、恨むらくは此の盛なる事をしらざる愚痴無智の凡夫もあらんかと、贔屓の腕をさすりつつ、みづから有頂天に登り、夢中に気を採りてところ斑(まだら)の宣言をそこはかとなく書付くれば、馴染の名に至て、その顔ちらちらとして目のあたりに出たるは、アララ不思議や生き霊にあらずんば、是親玉のかたまりならん。ヤイ餅好の衆生ども、みだりに是を笑ふことなかれ、ナント一番誤てその粕(かす)を食ふに至らば、漸(ようやく)、にして酒の中の趣をしらん。

きのえ申葉月の頃 水虎(かっぱ)散人悪寒発熱中に書す」

 明和元年(1764)の『菊の園』の巻末には、源内が朱筆で「元禄頃まで盛んであった男色を中興しようと、平賀源内はこの書を表し、更に三都の色子評判として、『三の朝』を出版する」と註記している。

 明和5年(1769)に、『三の朝』と題して出版された陰間茶屋案内書は江戸・京・大坂と三都の細見になっていて、元年発刊の、『菊の園』より一層詳しい。

『三の朝』の最初に凡例として、この茶屋の解説が要領よく綴られており、同書には「堺町葺屋町子供名寄」は、中村座へは12人、市村座へは10人が出演していたと、在籍する少年らを詳しく紹介している。

 水虎散人はほかにも、閻魔大王が歌舞伎若衆・瀬川菊之丞に一目ぼれした男色小説、『根南志具佐(ねなしぐさ)』や『乱菊穴捜(らんぎくあなさがし)』といった作品を発表している。

 源内自身の男色相手の愛童は、「市村座の芳沢国石という美童で、振袖を着て編笠をかぶって楽屋入りをしていた」と自身の軌跡、『平賀鳩溪實記(ひらがきゅうけいじっき)・寛天見聞記(かんてんけんぶんき)』に綴っている。