問題視された男色
仏教、社会、戦陣、すなわち僧侶と武家の間に、異性に対する性的禁止による状況が、男色という習俗を発達させ、それが江戸時代にも残影として存続した。
だが、主君よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷沙汰が起きたりするなどのトラブルが頻発したため、風紀を乱すものとして問題視されるようになる。
そして、江戸時代初期には、ほぼすべての諸藩で家臣の衆道を厳しく取り締まる動きが出た。
特に姫路藩主・池田光政は衆道を嫌悪し、男色はかぶき者と同列の存在であり、断じて許すべきではない「大不義」として、厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している。
少年売色が盛んだった若衆歌舞伎も慶安5年(1652年)には禁止となった。
とはいうものの、江戸幕府初代将軍・徳川家康は井伊直政、2代・秀忠は、丹羽長秀の長男丹羽長重。
徳川3代将軍・家光と5代将軍・綱吉も衆道に耽溺するなど、徳川将軍15代のうち、7人が男色に耽っている。
3代・家光は女性には全く興味を示さず男色一筋だった。
そこで乳母である春日局は家光を女性に興味を持たせるため、蒲生家の家臣の娘・お振を大奥に入れると、男装させて家光の閨に入り込ませた。
すると、女性との性愛行動の愉楽に目覚めた家光は、次第に男色を控えるようになった。その結果、大奥が誕生する。
武士の間での主従関係や身分や立場の差がある男性同士の同性愛を衆道という。
男色を衆道というようになったのは江戸時代になってからで、承応2年(1653年)の江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(遊女并隠賣女)」に確認できるものが最初の記述とされる。
それは男色に武家の作法が融合したもので、「若衆の道」の略。
別名「若道(じゃくどう」)、「若色」(じゃくしょく)、おかま、若気、男娼、筍、ヒガ、しんちゅうみがく、菊座、べす、へっぽ、午房の切口、などともいう。
衆道は「若衆」と呼ばれた少年が、年長者の兄貴分、「念者・念友」などと称される男性から、武術や武士の礼法、武士道的規律を教わる立場となり、模範的な振舞いなどの指南を受ける慣わしから広まった。
若衆の多くは美貌の少年で、念者は年少者の同意を得れば、成人するまでの間、男色関係が継続できた。
『葉隠』(1716年)によれば、若衆、念者はともに、他の男性と男色関係を持たないことが求められ、年少者が成人となるのをもって、男色関係は終わる。
その後は、生涯、親友として人間関係が継続されることが理想とされた。
同書には、それまでの若衆・念者の関係に加え、同輩関係の男色も見られるようになったとの記述もある。
