連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

花魁と床入りするには最低3回は足を運び、宴席などを設ける必要があった(画像はグラナダ大学美術史学科所蔵 浮世絵版画)

 吉原は、江戸市中の男性における性的不満解消のために創生した遊郭である。

 徳川家康が慶長八年(1603)征夷大将軍となり、江戸開府により、日本の中心は上方から江戸へと移り始める。

 江戸では土木建築工事が大々的に行われ、職人や人足が大勢集まった。人口は爆発的に増えたものの、男性が圧倒的多数を占めていた。

 1721年、江戸の町人人口は約50万人。男性32万人に対し、女性18万人と圧倒的に男余りの状態だった。

 これに目をつけた駿河や上方の女郎屋が江戸に続々と移転。

 男あふれる性的飢餓状態の当時、春をひさぐ女性たちの需要が非常に高く、売色稼業は成長産業として拡大していった。

 遊女を置く江戸の傾城屋は麹町(東京都千代田区麹町)や鎌倉河岸(東京都千代田区神田界隈)、京橋角町(東京都中央区京橋周辺)などに店を構えると、大いに繁昌。

「龍馬心猿」とは、人間が欲望を剥き出しにしてヤリたい放題やらかすことをいう。

 民が性的欲望を制御せずにセックスに耽ることを傾城、つまり「城を傾ける」ことを指し、城が傾けば国が滅びることになる。

 遊女の数が増え過ぎたため、幕府は慶長十年(1605)遊女104人を箱根以西に追放するなど、取り締まりを繰り返したが、遊女と娼家は江戸各地で増え続けた。

家康の意向だった吉原設営

 幕府は、たびたび強制的に傾城屋の移転を命じた。

 京橋柳町で妓楼を営んでいた庄司甚右衛門は、江戸の傾城屋の楼主たちの代表として、町奉行・米津甚兵衛に江戸に傾城屋を1か所にまとめ、幕府の公認を得た遊女町の設立要望書を提出。

 傾城屋を1か所に集めことで、治安を保つことが容易となり、場代金の設定も公事銭を徴収するにも効率が良いと甚右衛門はいうのだ。

 そこで御評定所の役人が大御所・家康に意向を尋ねると、

「人間の性欲は法律や取り締まりで鎮まるものではない」

「女性との交接は苦痛を抱える男性に欠かせない速効性がある」

「しかも、精神的肉体的な苦しみを緩和する鎮痛剤的効果が認められる」

 と考え以下のように裁断。

「日本国中の諸武士末々者に至るまで、江戸に来りて諸国になき楽しみを致さんと存じ、勇み寄ることよけれ、苦しからざる間は、その分永々さし置き候へ」

 家康の意向を受けた町奉行・嶋田利政は1617年、甚右衛門を評定所に呼び出し、葺屋町東(現東京都中央区日本橋堀留町)の2町四方、現在の日本橋人形町に遊廓設立の許可を与えた。

 当時は湿地帯で葭(よし)が生い茂る江戸のはずれの湿地で人が住むような場所ではなかった。

 この地に翌年、葭の原を刈って切り開いたことから、吉原と改め公営遊郭が設営された。