女郎とはもとは高貴な女性
明治11年まで、大阪には「大阪府遊女営業規則」というものがあったが、この年に改正されて「並席貸営業規則」となり、遊女の名称が廃せられた。
それまでは芸娼妓を共に遊女としていた。
これを芸妓と娼妓とに分けるために、太夫、天神妓で芸を以て興を添えるものを「芸子」と言った。
遊女は本来、芸を売り物にした妓と看倣されていたのである。
宮武外骨著、『売春婦異名集』によれば、「女郎」の名は、寛政(1789~1800)の頃から太夫を傾城と称し、その他の遊女を女郎と呼ぶようになったという。
この「女郎」の類称とも言うべきものには「上臈」「上郎」「女郎」「上職」「上妓」等がある。
上臈とは、地位や身分の高い尊い女官、身分の高い人、上流の婦人に対する呼び名である。
下関赤間遊郭の伝承によれば、寿永4年(1185)壇ノ浦における源平合戦で平家が滅びた時、安徳帝を擁して平家の軍は、ついに海に投じた。
この際、都から従ってきた数多の女官で、岸に流れ着き、生き残った者は、附近の山間に逃れ、そこに隠れ住んだ。
やがて生計に窮して野花などを売りに出たり、人々から袖を引かれたりして、いつしか色を売るようになった。
そこで土地のものは、昔の女官のなれの果て、売色に勤しむようになっても、あれは「上臈様」だと言って有り難がった。
この「上臈」が後には「上郎」とか「上良」となり、さらに「女郎」になった。
女郎とはもとは一般に女を指していった名で、別に遊女と限ったわけではないが、江戸時代になってから遊女の別称となった。