楼主が忘八でなければならぬワケ
人買いが娘を娼家へ売り込む、身代金にも高下があった。
女郎の年季は27歳までということになっていて、妓の身代金は年齢・容姿・経験の有無によって決まり、年季証文というのを入れて、その間は特に身請けでもされない限り辞めることはできない。
身代金は江戸中期以降でも、40~50両(現在の価値で約360万~450万円)が相場だった。
遊女たちは年季奉公という形で働かされ、一定の年限を働くか、遊女の身代金を返却できれば解放された。
私娼の身売りの場合には「とや(梅毒)」の経験のある女の方がかえって高く売れた。
その理由として、客を取って間もなく病気となり稼業を休まねばならぬ心配がないからだという。
「人間はどんなに悲惨なこと、悲劇的なことでも慣れることができる」
それが人間の特徴だというのだが、遊女の大部分は性病などの感染症に罹患するなど、健康を害する者も少なくなかった。
死が迫り、未来への夢が破綻した遊女に対し娼家は、葬儀等の手間を省くために年季を放棄することもあった。
また、息絶えた遊女の遺骸は、着ぐるみを剥がされて簀巻きにされ、吉原遊郭の近くにある浄閑寺に投げ込まれることも日常的に行われた。
もし、死んだ遊女を人として供養すれば後々祟られるため、犬猫のように葬ることで畜生道に落とすという意味があったとされている。
江戸後期の職業・風俗の世態を伝える『世事見聞録』 では楼主についてこう批判している。
「売女は憎むべきにあらず、ただ、憎むべき者は、かの忘八と唱うる売女業体のものなり」
「天道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人間にあらず」
「畜生同然の仕業、憎むに余りあるものなり」
遊女たちを情に流されることなく商品として扱い、遊女たちから搾れるだけ搾り取る冷酷さが、妓楼経営の才覚そのものだった。
それは教養にもまして重要な要素で、楼主には忘八という蔑称がある。
忘八とは、人が重んじるべき「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八徳が欠落した者のことで、人としての徳が備わってしまえば、遊女屋の経営などはできなかったのである。