女郎の階級
客に太夫が置屋から招かれる際、若い見習いの遊女らを従えて、娼家と揚屋の間を行き来することを「滑り道中」、後に「花魁道中」と称した。
「花魁(おいらん)」とは己れ(オイラ)の意味である。
禿(かぶろ)が「おいらンいっちょく咲く桜かな」と、自分の姉女郎が植えた桜が一番よく花が咲いたとの歌が有名だが、「オイラの姉女郎」といったことが由来とされる。
遊女の妓品、等級には江戸、吉原では寛永期には、太夫、格子、端の 3階級があった。
後に太夫、格子がなくなり、散茶、埋茶など様々な妓品が起こった。
もともと散茶女郎は埋茶の上。太夫、格子の下の階級で、揚屋入りはせず、娼家の2階で客を取っていた。
通常、抹茶やひき茶のように茶葉を挽いて粉にして、茶葉を袋に入れて湯の中で振って抽出した。
散茶女郎と呼ばれる由来は、散茶はそのまま湯を足すだけで飲めるため、「袋を振る必要がない」、つまり、「振らない・客を断らない」という意から、散茶女郎と呼ばれた。
公娼ではない町の私娼にも、遊女には階級が存在し、吉原の外の河川沿いにいた河岸女郎とか長屋女郎、また、その最下級を鉄砲女郎と称した。
売色稼業は、洋の東西を問わず、途絶えたことがない生業だが、それに従事する女性の地位は、かつてより低下しているのではないか。
老子は、「道のいうべきは、常の道に非(あら)ず。名の名づくべきは、常の名に非ず」と、ものごとの本当の意味は言語、文字表現の外にある、と指摘する。
そもそも「女郎」の語源、「上臈」は、地位や身分の高い女官、身分の高い人、上流の婦人に対する呼び名。
しかし、「女郎」はのちに大衆の俗語となり「女ども」といったような、安女の意味で使われるようになった。
だが、かつて壇ノ浦・源平合戦で平家が滅び、尊い女官のなれの果てに売色することになっても、里山の男たちは、彼女たちを、「女郎」と蔑むのではなく、「あれは上臈様だ」と言って敬い、高貴な女性の艶やかな白い太腿のご開帳に、有り難く手を合わせて、身分を超えた「床入り」に胸弾ませたのだろう。