遊女を全国から集めた口入れ屋
女が娼婦になることを「廓勤め」、または「遊里に身を沈める」とか「身売りする」という。
それは女にとって悲惨なことであるが、カネのために女が身を売ることについて、当時は気の毒にこそ思われても、その判断を批判するようなことはあまりなかった。
なぜなら、当時、売春について世間では、さほど不道徳とか罪悪視されない風潮による。
江戸中期には吉原の遊女は2500人、点在する70か所の岡場所の遊女の合計は3500人とされ、合計すると約6000人の遊女が江戸にいたとされる。
これに「江戸四宿」品川(東海道)・板橋(中山道)・内藤新宿(甲州街道)・千住(奥州街道)の宿場の各旅籠には飯盛女と呼ばれる女郎が約1000人。
当時、江戸で春をひさぐ女性の数の総計を7000人とし、江戸の女性の人口は40万人で試算すると、1.75%の女性が売色稼業を生業としていたことになる。
娼婦になる女には、何らかの事情で自らが娼婦になる能動的な場合と、もう一つは意志に反して売られてくる受動的な場合がある。
廓は、娼婦と娼家、抱え主の3要素によって構成された。
そこで娼婦は身売りするにあたり、身代金を受けて年季奉公する形式となる。
娼家が妓を求める場合には周旋屋(せんぷうや)などに依頼する。
周旋業者とは、桂庵(慶安)屋、口入れ屋、人宿(ひとやど)、請宿(うけやど)、人置(ひとおき)、肝煎(きもいり)屋とも称され、遊里通言では玉出し屋といい、俗称では人買いとも言われていた。
いわゆる女衒である。その生業は、諸国を巡り歩いて、貧農の娘などを探し出すものであった。
女衒は貧困に喘ぐ親たちを口説き、娘には家の窮乏を救えるし、勤めも決して骨の折れることではない、うまいものを食べて綺麗な服を着て暮らせるのだからと、甘言を弄して勧誘した。
こうした貧農の娘は、結局安く仕入れることができて、利益が多く、買い主にも喜ばれた。
しかしいったん話がまとまり、家から連れ出した途端、冷酷無情な扱いをする輩も少なくなく、人馴れしていない若い娘には、家に戻ることを諦めさせるために、江戸までの道中において女衒が水揚げをすることも珍しくはなかった。