連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

閨房の営みは、偽りのない1対1の人間の接触を喜悦する。
江戸時代に交接は、「交会(こうかい)」、「交合」と称され、俗称では「取組」といい、「とる」は、昼どり、居どり、廻りどり等と称された。
我々は、性交の最中、男は女に、女は男に、すべてを与えることで、その「真情」を得ようとする。
そこには、何らの見栄も体裁も駆け引きもない、生の人間として接するという意味がある。
一面からいえば、相手の前にすべてを解放することであり、そうなり得たことと、そうなさしめたことを互いの悦びとする。
それは我々の生活の中で、最も信頼し、最も愛する相手のためにのみ、為し得ることといえよう。
そこには、容貌も表情も、日常、見ることのできない真実のものとなって現れる。
悦味に至れば、その場合の歓喜の情を訴えるべく、たびたび痴語嬌声を発するのだが・・・。
我々の持つ通常の言葉は、単に日常の生活に間に合うものだけで、こうした感情や感覚を表現し得る言葉を、私たちは持ち合わせていない。
そのため悦味に至った場合、ほとんど普通のいわゆる言葉とはならず、もっと切実な断続的な言葉となったり、あるいは言葉とならない音声を発したりする。
よってエクスタシーの瞬間、私たちは言語による表現の限界を感じることになる。
寛政年刊に出版された洒落本『覚悟禅』には、
それは、己の意思では制御できない、自然本能的な、あるいは本質的な営みを含むものであり、敬虔と用心深さが求められる。
そのため、悦楽に至る交会は、「秘事」とされてきた。
同衾の作法と掟
どの家にも寝室があるが、娼家、色茶屋、遊び茶屋等には、それぞれ客のための寝所がなくてはならない。
しかし、それは公然の寝所ではない。あるいはそれが寝所だと言っても必ずしも本当の意味の眠り場所とか、泊まりの部屋を意味しない。
妓楼には部屋、廻し部屋、割床などがあり、遊女は位が上がれば「部屋持」となり、それに見合った部屋を持つことができた。
部屋といっても遊女に居室が用意されるのは、上妓に限られ、やがて上妓は座敷持ちとなり、最高位の三分の太夫となれば、豪華な表座敷が与えられた。
上妓の専用の個室を「本部屋」という。
それは共用の部屋と違って、普通の座敷の居間と同じように、長火鉢、タンスその他鏡台など、妓の諸道具調度などが揃っていて、世帯染みた感じはあるが、しんみりと落ち着けるところだった。
本部屋の遊びは上客だが、同じ代金を払っても、先客が居れば、そこへは泊まれない。
廻し客をとるところでは、本部屋をもつ妓でも、最初に来た馴染の泊まり客だけを本部屋に入れ、他は廻し部屋で交接をすることになる。
遊女と客が寄り添って寝ることを添臥し(そいぶし)という。
座敷持ちの花魁級の遊女へは、「積み夜具」という布団を贈る風習があった。
重ね夜具といって、一般の家で使われるものとは大分異なるものだった。
何枚を敷き、何枚をかける、など布団の敷き方、重ね方には一定の決まりがあったのだが、吉原の妓楼の夜具は、「三(みつ)布団」といって、敷布団が3枚。
同衾用に作られている布団で、現代のダブルベッドぐらいの幅がある。 綿は上等で柔らかな素材で誂えられ、寝ると体が布団に沈むほどだった。
客から遊女へ「三布団」が贈られると、妓楼の入り口に積み夜具として飾り、お披露目した。
遊女になると、初めからこの豪華な三布団に寝られたわけではない。見習いの新造は1枚、座敷持ちの花魁になってから、初めて3枚の布団が贈られたのである。
遊女は交会を売り物にしているため、たとえ布団へ入るにも、そこに遊女としての作法心得があった。
客との交接が稼業の彼女らは、性交時、オルガズムに達してはならないとされる。
また、妓は客と同衾する場合、一晩中眠ってはならないと訓(おし)えられていた。
遊女が客と枕を交わすことを「お重合り(おしげり)」といい、その言葉は「おしめり」から転化したものだ。
遊女の床の位置は左側に左を下にして横になり、客は右側に右を下にして、向かい合うように添臥する。
これは妓が遊客に不法ないたずらや、無理心中を仕掛けてくるなど思わぬ障害を受けるようなことのないように、右手の自由を制限する意味があり、右手下の位置が定められていた。
また、遊女は行灯を枕元に置く際には、灯火は妓の背後に配置して逆光線になるようにした。
それは、相手の客に目近かに顔を見られることを憚ったことによる。
あるいは、遊女自身が灯火と向かい合うと、目が疲れて眠くなり、客が目を覚まして妓の方が眠くなれば、商売上様々な不都合が生じさせないためでもあった。
遊女の挿す簪(かんざし)も、時と場合によっては武器にもなり、枕の抽出や手許の小箱に剃刀を置いたのは自衛のためである。