連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

「男色」(なんしょく)とは、日本だけでなく中国でも男性同士の性愛(男性同性愛)を指す言葉で、「色」とはともに性的快楽を意味する。
明治時代初期の日本では、男色という風俗は男女の恋愛と同等に公然と行われ、決して異端でもタブーでもなかった。
釈迦の男色
吉田兼好の『徒然草』の最後の段に、少年だった兼好が「仏とはどのようなものか」と父・兼顕に尋ねるくだりがある。
父・兼顕が「仏は人が成る」と言うと、「どのようにして成るのか」と兼好は尋ねる。
父・兼顕は「仏の教えによって成る」と答えると、「その教えを説いた仏はどのように仏になったのか」と兼好が聞く。
父・兼顕は「その前の仏も、その前の仏も、仏の教えによって仏になったのだ」と答える。
「ならば最初の仏はどのような仏だったのか」兼好が尋ねると、「空から降ってきたのか、地上から生えてきたのか」と言って父・兼顕は笑ったという。
古代インドの文献『サーカターヤナ』や『ストリニルヴァーナプラカラナ』には、「人間というものは相手の性別が男女いずれであろうとかかわりなく欲情するものだ」と記されている。
日本には古くから男色の開祖は釈迦である、とする俗説が存在する。妻子への煩悩を断つために、仏陀は男色の道を始めたと言うものだ。
シャーキヤ国の王子だったガウタマ・シッダールタ(後の釈迦)は、女性嫌悪的なところがあり、妃を娶っても一向に相睦むことなく、父王をして、勃起不全ではないかと案じさせたとか。
出家した釈迦は、最初に師事したアーラーラ・カーラーマ仙という仙人に、無処有処(何もない)という瞑想を伝授される。
この時、釈迦はアーラーラ仙の男色の相手を務めていたといわれている。
後世の仏教僧院で、男色が横行した遠因は、ここに胚胎していると見られる。
釈迦は、侍者として常に説法を聴いていた美男子で名高い弟子の阿難(アーナンダ)や優れた神通力の使い手の目蓮(マウドガリヤーヤナ)を愛人にしていたと伝えられる。
釈迦が生まれる前の、ヒトや動物として生を受けていた前世を説いた物語『本生譚(ジャータカ)』の約9割は、釈迦と阿難のただならぬ関係が物語として描かれている。
西暦409年に漢訳され日本に伝来し、奈良時代の僧侶の間で愛読された仏典『四分律』には、僧侶の「色欲」自体を戒めるものがあり、「仮に毒蛇の口に男茎を入れようとも、女体挿入することなかれ」と釈迦が説法したと伝えられる。