遊女の死因

 女郎のほとんどは貧しい家に育ったとか、困窮の結果、身代金欲しさに身売りをしてきた者が多かった。

 娼家では、売れっ妓には、できるだけ美しく着飾らせたり、化粧をさせたりしたが、評判の上妓を除いた他の大半の妓は、消耗品扱いで、一日中、何人もの客を昼も夜も取らされ酷使された。

 吉原の遊女勤めは「苦海十年」といわれ、18歳から27歳までの暮れまでを「年季」と定められていた。

 人は誰しも、自身の安全と幸福を望むものだが、時間制で客を取る女郎は、病気にならないように、妊娠しないようにと用心していても思うようにならず、駆使され素食と不摂生により、病気にかかったり、堕胎で体をいためたりして、病死する者も少なくなかった。

「人間は穴から出て穴に入る。あな恐ろしや穴の世の中」との川柳がしめすように、遊女の死因には情死、自殺、私刑死、病死等様々に隠された裏面があった。

 女郎が亡くなると、新鳥越(現・東京都台東区浅草)の西方寺(現在は豊島区に移転)、三輪(東京都荒川区南千住)の浄閑寺などの投げ込み寺に葬られた。

 投げ込み寺は無縁の死人を葬る共同墓地である。

 ここで葬式が営まわれるのではなく、ただ女郎の遺骸をここへ運んで穴に投げ入れて帰ったという。

 女郎の年季は27歳だが、寺の過去帳によれば、亡くなった女郎の多くが20代で、若くして亡くなる娘が多かった。

年季が明けた後は

 年季が明けた遊女は、かつて身を売っていたことで、差別されたり、白眼視されたりすることはなく、一般の家庭に入ることは珍しいことではなかった。

 女性の識字率が低かった時代、妓楼は遊女の価値を高めるために教育に力を入れていたため、吉原の遊女たちはほぼ全員が読み書きができた。

 また、上妓となれば、芸能、技芸、才気、教養など、どんな相手の客の前に出ても、その階級に応じて接待を心得ていた。

 手練手管をいろいろ習い、それを覚えて男の身体と心の弱点を知り尽くし、客を喜ばせ手玉に取る方法を心得た遊女だが、この努力は稼業として用いることなので、いざ足を洗って堅気の女房ともなれば、もはやそれは必要なくなる。

 年季が明けて市井に入れば、律儀に立ち働いて、世帯を築いて自分の居場所に満足し、亭主大事によく尽くす女もいた。

 そうした女は、散々あらゆる男という男を知り尽くしてきた遊女の生活の自堕落さに嫌気がさし、自分なりの居場所を求めて、更正の気持ちに立ち返った女なのだろう。

 一方で、長い間の女郎生活の環境に染まってしまった結果、男を男とも思わぬ女、不愛想で抜け殻の女といった女、骨惜しみをして、何かにつけてだらしなく、家の中でも外来者に対して気の利いた応対もできない女もいたようだ。

 そうした女郎の生活が染みついて抜けきらない女は、昼より夜、閨房が生活に合っている。

 そのため、同じ見世で、遣手の仕事に就いたり、同じ春をひさぐ稼業である切見世や岡場所、風呂屋に流れたり、尼になった女郎も数多くいたという。

 人の心情は多分である。

 年季明けの女郎は、「苦海十年」から抜け出して、自由気ままに、自発的に運命を変えることもできたはずだ。

 廉直なる人は堅実に、粗略なる人は自堕落に、市井での後半生の人生は実に様々だったようである。