連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

歌舞伎や声曲、花、俳諧、狂歌など、町人時代の文化が勃興した吉原遊郭は、「性」を買うことだけを目的としたところではなかった

 人間の個体を大別すると男と女の2種類となる。だが、この2つは形態、機能、情操など、それぞれに全く異なった性質を有している。

 食欲と性欲は動物の2大本能とされ、我々は食欲によって発育生育し、性欲によって種族を生産維持する。人間の生活活動は、この自然本能の支配を免れない。

 この男女性別の原資が「性」であり、性欲は各々異性を対象とした欲望であり、性欲の究極の目的は異性との性交で、それがかなうことで性欲は満たされる。

 また、性欲の活動目的が結局は人類の生産維持ならば、性欲は要するに「生」の欲望ということになる。

 ところが、一般には性欲というのは、恋愛よりも下品なものと捉えられがちである。

 だが、広義的にとらえれば恋愛も性欲の範疇に含まれる。恋愛とは性欲の詩的な表現にほかならない。

 男は女に、女は男を欲求する性の欲望は、愛欲、情欲、色欲、肉欲、淫欲など、様々な類称があり、もっぱら異性の肉体をのみ対象とし、それは性的な満足を追求する自然生理的な欲求である。

江戸男はほとんどが通った吉原での女郎買い

 廓(くるわ)とは、囲いを設けた一定の場所、城郭の意。

 幕府は遊女町をつくるにあたり、他の町と水路で隔てたことで、それが城の堀のようだとして廓・遊郭などと称された。

 当時、黒塗り板葺きの大門(おおもん)が吉原への唯一の出入り口、それは治安や遊女の逃亡を防ぐ意味があった。

 吉原の大門には「大学」という額がかかっていた。女郎を買う廓が大学とは変な取り合わせのようだが、そこには、

「大学は孔子(格子:遊郭で、遊女が格子の内側から自分の姿を見せて客を待つ)の居所、諸客ここ(床)に入る門」
                
 という洒落が込められていた。

 江戸の唯一の社交場であり、歌舞伎や声曲、花、俳諧、狂歌など、町人時代の文化が勃興した吉原。

 当時の文芸諸書は、廓での男女の色恋や情事を扱ったものがほとんどで、遊女の風俗や性技が江戸庶民の暮らしや性生活に大きな影響を及ぼしていた。

 当時の女郎買いに江戸の男のほとんどの人が足を運んだというくらい、江戸っ子にとって吉原は身近なところであった。

 享和三年に出版された『酒徒雅(さけのとが)』に、「肌をふれるばかりが傾城でもあるめへ」とあるように、江戸の町では吉原は性を買うことだけを目的としただけの場所ではなかった。

 遊ぶところ、楽しむところであった。

 新吉原には「燈籠」「俄(狂言)」「桜」などという華やかな年中行事がいくつもあり、それらを見物するために大人から少年、青年たちはもちろん、子供たちまで連れ出された。

 豪華な大見世では、甘く木質系の奥深い伽羅の香が、陽炎のように朦朧と立ち込めるなかで、華美な服装に身を包む遊女たちが、優美に琴を奏で、それに合わせて曲線美の身体を動かしながら華麗に舞う。

 それは、この世ながらの別世界で、いわば極楽鄕において、大尽の身心を羽化登仙させることで惜しみなく蕩尽させるために、一般世俗とは全くかけはなれた特異な風情の中で、吉原では人間の2大欲望、色色二道の一つ、性欲を徹底的に活用した。

 そして妓楼主は遊客から金銭を吸い上げるために、様々な制度を次から次へと案出していった。

 五節供やその他、特別な日と定められた「紋日(もんぴ)」は、揚代も特に高かったが、遊女は必ず客をとらねばなかった。

 客が遊女と馴染(なじみ)になった証に贈った新調の夜具は、積夜具、飾り夜具といい、客と遊女のモチベーションを高めるために、ひな人形を飾るが如く、店の前に見栄え良く積み上げて、道行く人に披露した。

 また、1人の娼妓が同時に2人以上の客を取り、順次に客から客へ廻って歩く廻し制など、あらゆることが妓楼では企図された。

 廓の上妓は芸能、技芸、才気、教養など、貴賤貧富の別なく、どんな相手の客の前に出ても、その階級に応じた接待を心得ていた。

 客を歓ばせて大金を吐き出させるには、妖艶な外見を徹底的に磨くだけでなく、器量と頭の良さ、豊富な経験、そして相当なセンスが求められた。

 一般の江戸っ子が、打算的なことは卑しいといった、金銭に淡薄だったと言われた気風と同じく、上妓ともなれば遊女といえども嫌な客なら千金を積まれてもカネでは買われないといった、自負心も強かった。

 妓楼の主も、素質が大分に高い上妓には、普段から特に機嫌を取るなどして、気分良く働いてもらうよう努めていた。