
名門・明治大学野球部の監督として、単なる野球指導者の枠を越え、現代の学生野球に求められる様々な課題と向き合いながら、「令和の虎の穴」とも言える強固な組織を作り上げた田中武宏。後編は、その指導スタイルの土台を作った、監督就任までの足跡を追う。(矢崎良一:フリージャーナリスト)
【前編】楽天・宗山をはじめ過去15年で10人のドラ1を輩出、「プロ育成工場」と化した明大野球部はなぜすごいのか?(JBpress)
田中は兵庫県の公立校・舞子高校の出身だ。高校3年の夏、県大会でベスト4まで勝ち進んだが、準決勝で優勝した明石南に0-2で惜敗。この年の兵庫はベスト4がすべて公立校で、「甲子園、行けると思ったんだけどなぁ」と今も悔しそうに言う。
学校では特に野球に力を入れていたわけではない。田中もそうだが、通学圏内の野球が上手な子がたまたま集まってきたチームだった。公立校の箕島(和歌山)が甲子園春夏連覇を達成した年である。
大学でも野球を続けるつもりで関西の名門私大への進学を希望していたが、スポーツ推薦の枠に入れなかったため、東京六大学に志望校を変える。
当時は関西でも六大学のリーグ戦がよくテレビで放送されていたから、各校のチームカラーは知っていた。父親が大手スポーツメーカーの役員をしていて、仕事で東京に来ることが多かったので、一緒に上京してグラウンドを見学に行った。
早慶はいささか受験のハードルが高く、スターが居並ぶ法大に対して、明大はあまり聞いたことがない高校の選手が何人もレギュラーを張っていた。自分が行って試合に出るチャンスがあるのは明大だと考えた田中は、文系の学部全部に願書を出し、一般受験で合格。入学を果たした。
2年生の頃から公式戦で起用されるようになり、3年生になるとレギュラーを掴んだ。小柄ながら俊足強肩の外野手で、「高田繁の再来」とも言われていた。
明大といえば、「御大」と呼ばれた島岡吉郎監督。「お前はバットなんかいらないんだ」と言われ、ひたすら守備の練習をさせられた。理不尽が当たり前の時代で、それを現代の価値観で是非を論じても意味がないだろう。だが意外にも、田中は御大のゲンコツを一度ももらったことはなかったという。
「御大も元気な頃だったからね。でも、だいたいやられるのはバッテリーや内野の選手が多かった。僕は外野手だったし、危険予知能力があったから、絶対につかまらなかったな」と笑う。
「そりゃ負けた試合の後のロッカーなんかで御大の通るところにいたら、誰だってひっぱたかれますよ。だから僕は絶対に近くに行かない。目を合わせたらダメだから、ずっと下向いてました」