2014年に、9年ぶりに甲子園出場を決めた春日部共栄ナイン(写真:共同通信社)
埼玉県の春日部共栄高校野球部を45年間にわたって率いてきた本多利治監督が、昨年秋の大会を最後に退任することになった。
1993年夏の準優勝こそあるが、甲子園への出場回数や勝利数においては決して飛び抜けた実績は残していない同校が、数多の強豪校に劣らぬ知名度を持っているのは。本多監督の卓越した育成力と人間味溢れるキャラクターに寄るところが大きかった。高校野球の名将が、甲子園優勝よりもこだわり続けた夢とは?(矢崎良一:フリージャーナリスト)
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「3月31日が正式な引退の日なんで、それまでにゆっくり考えるつもりです。4月1日以降のことは、具体的には何も決まっていません」
今後のことを尋ねると、本多は煙に巻くかのようにそう言う。67歳。当初は学校から教員を定年になる「65歳で」と言われていたが、いきなり辞めてしまっては選手も混乱するだろうということで、再雇用制度を用いて監督を続けてきた。
「本当はあと5年、72歳までやりたかったんですよ。そしたらちょうど50年。区切りが良いんで。でも、もう2年も延ばしてくれているんでね」
本多の高校野球監督としての歴史は、春日部共栄高校野球部の歴史でもある。1980年、学校創立と同時に監督に就任し現在に至る。長さでいえば、既に退任した横浜高校・渡辺元智監督、帝京高校・前田三夫監督の在職50年という例があるが、創立以来の初代監督として45年というのは、全国を見ても聞いたことがない。
「他にいないと思うよ。今、知り合いの記者さんに調べてもらっているんだ」と言い、本多は「あはははは」と豪快な声を挙げて笑った。この「大笑い」は本多のトレードマークでもある。
ちょうど半世紀前の1975年。高知高校のセカンドとして春の甲子園で優勝を果たした本多。日体大に進み4年時には主将を務めていた。
ある日、監督から「今度、埼玉に新しい学校ができる。野球部の監督ができる新卒教員を募集しているから、お前、面接に行ってこい」と言われた。埼玉には何のゆかりもなかった。「俺なんかでいいのかな?」と思ったが、たまたまその年の4年生には埼玉の高校出身者が誰もいなかった。
「本当は田舎(高知)に帰りたかったんですよ」と本多は言う。母校の高知高校に帰って教員になり、野球部の指導をするのが夢だった。恩師の岡本道夫監督からも「次の監督はお前だからな」と言われていた。
ところが、その年の高知高校は職員の募集がなかった。野球部の後援者には「教員の空きが出るまで、仕事をしながら野球部を指導したらどうだ」と会社を紹介してくれる人もいた。そんな折りに春日部共栄の話が来て、トントン拍子に採用が決まった。
1年後、高知高校の教員に空きが出た。そこには野球部の後輩がスッと入ったという。もしどんな形でも高知に帰っていたら、自分が採用になっていたことだろう。「運命」としか言いようがない縁で、本多は春日部共栄の監督になった。
