死の恐怖や悲しみなどの感情とどう向き合えばいいのだろうか(写真:Spica/イメージマート)
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 家族の死、友人の死、自分の死、私たちはいつ何時死に直面するか分からない。高齢化と人口減少の進む日本では死は雪崩のごとく押し寄せてくる。自分の死といかに向き合い、大切な人の死をどう受け止めたらいいのか。『「死」を考える』(河出新書)を上梓した恐山菩提寺院代・霊泉寺住職の南直哉氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──この本の中で、ある老僧が重たい病気になって死を覚悟した時に、毎日、病院のベッドの上で坐禅をして死の恐怖を凌いだというお話がありました。坐禅をすると、死の恐怖を回避できるのですか?

南直哉氏(以下、南):死の恐怖を感じた時に、仏教的には2つの対処法があると思います。恐怖を消すか、恐怖を感じる主体を消すか、そのどちらかです。おそらく坐禅は、主体を消しにかかるのです。感じる主体を消してしまえば、感じなくなる。

──それは、1回やって主体を消したらもう大丈夫というものではなく、何度も繰り返すのでしょうか?

南:そうです。恐怖が蘇ってきたらまた消せばいい。人間の存在は病そのものです。生きているということは対症療法であって、完全に病巣を除去することはできません。

──死に向き合う感覚がいかに年齢によって変わるか、というお話がありました。やはり高齢になると、死を受け入れる心の準備ができるのでしょうか?

南:死に時があると書いたわけではありませんが、90歳ぐらいまでいくと、分からないままに死を丸呑みできる可能性はあります。苦しくないというか、生きるのはもういいという感じになるという印象があります。そこまで高齢になると、あまり難しく考える気がなくなりますしね。

 少なくとも僕は、その年齢までいった方で、苦しんで亡くなった方を見たことがありません。ふっと逝っちゃうのです。知り合いの住職たちに話しても、このことを頭から否定した人はいませんでした。しかも、そのぐらいの年齢までいく方は周りから大事にされているから、人間関係でも大きな問題を抱えていない。そういう意味でも心残りがありません。

──孤立と死の関係についてのお話もありました。田舎で1人ぽつんと農業などしながら暮らしている長寿の方の話などもたまに聞きますが、孤独だと長生きすることは難しいですか?

南:孤独と孤立は違います。物理的にそこに1人でいるから孤独ということにはなりません。孤独な人とは、自分の気持ちを分かってもらいたいのに、分かってもらえない人のことを言うのです。

 孤独な人は、周りに大勢の人がいても孤独です。今ある人間関係に満足していたら、そこに1人で住んでいたって孤独ではないし、そう簡単に死にません。孤独自体は必要なものでもあります。しかし、孤立はまずい。孤立とは、自分の気持ちを分かってもらえなかったり、相談しようにも相手がいなかったりする状況です。