今の社会は「必要」を可視化できていない(写真:mapo/イメージマート)
経済成長を続ければ、人々は豊かになり、幸せになれる。私たちは長くそう信じてきたが、GDPが十分に大きい日本で、果たしてどれだけの人が幸福を実感しているだろうか。
そんな疑問に対して、中村隆之氏(青山学院大学経済学部教授)は経済が「欲求」ばかりを満たし、「必要」を置き去りにしてきたと指摘する。社会が見落としてきた「必要」とは何か、「欲求」ではなく「必要」に基づく社会とはどのようなものか。『今こそ経済学を問い直す 切実な「必要」の声を聴くために』(講談社)を上梓した中村氏に、話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)
──本書執筆のきっかけとして、2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件を挙げています。
中村隆之氏(以下、中村):あの事件の犯人である植松聖死刑囚は、言葉による意思疎通ができるかどうかで殺害の対象を選別していたとされています。
言葉を発し、意思疎通ができる人は殺さない。一方で、それができない人は殺す。彼の中では、前者には価値があり、後者には価値がないという発想があったと思われます。彼は、価値のない人間は社会の負担でしかなく、殺した方が世の中のためになるといった趣旨の発言もしています。
経済学者に、この考え方に賛同する人はほとんどいないはずです。なぜ多くの人が植松死刑囚の考え方に賛同しないのか。
それは、経済学者を含め私たちが市場経済を通じて生産を拡大し、GDPを増やすことで、生産に参加できない人を社会全体で支えることができるという前提を共有しているからです。意思疎通ができないという理由だけで「役に立たない」と決めつけ、命を奪うという価値観はその前提と相容れません。
けれども、ここで立ち止まって考える必要があります。
「生産できない人を養う」という発想には、「面倒を見てやる」という含みがあり、生産に参加できない人をマイナスの存在として捉えているのではないでしょうか。「GDPの一部を割いて支えている」という考え方と植松死刑囚の思想は、方法こそ違えど生産性を基準に人の価値を測っている点で根底を共有しています。
そう気づいたとき、私は「働かざる者食うべからず」という勤労倫理と、それを前提とした経済学の枠組みを疑う必要があると感じました。
──書籍の冒頭で、「真に豊かな社会をめざすのであれば、経済成長を追求する路線でごまかすのではなく、豊かさとは何かを根本から問い直さなければならない」と述べたうえで、特に「欲求」ではなく「必要」という概念を問うべきだと主張していました。
