「GDPという手段が目的化してしまっている」
──ケインズは1930年頃、貨幣的な価値で人々が動機づけられている資本主義経済は、物質的な富を生み出すうえでは非常に有効であり、その体制を100年続ければ、経済成長によって誰もが衣食住といった「絶対的な必要」に困らない社会が実現すると予測しました。
中村:この予想は、ある程度当たっていると言えると思います。現在の日本のGDPや生産能力では、人々の最低限の衣食住を支えることは十分に可能です。
──一方でケインズは、絶対的な必要が満たされた社会では、人は資本主義的な低俗な価値観から脱することができるかもしれないとも述べています。この点については、いまだ克服できていないようにも感じられます。
中村:ケインズ自身も、人が理想的な生き方へ変われる可能性を示しつつ、結局は低俗な価値観から抜け出せないのではないかという危惧を書き残しています。私たちが変われない理由の一つは、GDPや経済成長そのものに価値があるという考え方から抜け出せていない点にあるのではないでしょうか。
GDPは本来、幸せに生きるための手段にすぎません。GDPという生産能力があれば、さまざまな幸せにつながる。現代では、あたかも万能の指標であるかのように受け止められ、GDPそのものを追い求める思考が定着してしまっています。手段が目的化してしまっているのです。
さらに、GDPは国の生産力であり、それがなければ国は強くなれないという発想も根強く残っています。GDPが小さい国は弱い、だから拡大しなければならない。この価値観は明治以降、強迫観念のように続いてきました。
150年以上そうした考え方にさらされてきた私たちが、そこから容易に脱却できないのは、ある意味で当然なのかもしれません。
──「『必要』を明るみに出すためには、何か新しい仕組みを用意しなければならない」と書かれています。なぜ、既存の仕組みでは不十分なのでしょうか。
中村:たとえば、私がパソコンを欲しいと思ったとします。そのときにはパソコンを買うための支払い意思があります。その意思が市場に伝わり、メーカーは生産を増やそうと動く。つまり、欲求はお金を媒介にして、生産を促す回路をすでに持っているわけです。
しかし、「必要」はそうではありません。たとえば、親の介護に追われている人が「1日でいいから、ゆっくり休みたい」と思ったとしても、その思いはお金の支払い意思として表現されません。市場に信号として伝わらない以上、その「必要」は実現しにくいのです。
つまり、「必要」を表明してそれを満たすための回路そのものが、社会の中にほとんど存在していない。
だからこそ、「必要」を実現するためには、新しい回路をつくらなければなりません。現時点では、「ここにはこうした『必要』があるはずだ」と外部から推察し、対応する仕組みはすでにあります。その代表例が介護保険制度です。
介護保険では、本人が「これが必要だ」と逐一表明しなくても、要介護度というかたちで必要性を推定し、その段階に応じたサービスを提供します。これは、「必要」を推し量り、制度として応える一つのモデルだと言えるでしょう。