静岡県の知徳高校を率いる初鹿文彦監督は、父が監督を務める日本航空高校のコーチとして、指導者人生をスタートさせた。2001年夏には親子でチームを甲子園に導いたが、その翌年には拠点を静岡に移し知徳に赴任している。そんな激動の時期に生まれたのが、長男の泰聖だった。(矢崎良一:フリージャーナリスト
泰聖にとって山梨は父親の実家ではあるが、そこまで強い印象はない。物心が付いた時には、父と祖父が知徳(当時は三島高校)野球部を指導していて、それを見て育った。
文彦がそうだったように、子どもの頃から自然にチームに馴染み、グラウンドに遊びに行けば、お兄ちゃんたちが一緒になって野球をして遊んでくれた。「指導をしている父の姿に、すごく憧れがありました」と言う。まして、そこに祖父もいたのだから、高校生になったらそこで野球をすることは必然だった。
それでも野球部への入部を決めた時には、文彦から「グラウンド内では赤の他人として振る舞うからな」とクギを刺されていた。同時に「同じくらいの実力の選手がいたら、そちらの選手を使う。だから試合に出たかったら、はっきり上に行かなくてはいけないぞ」とも。
グラウンドや学校では、常に「初鹿先生」と呼んだ。ただ、人前では敬語を徹底していたが、家に帰ってきてからは父親に戻り、普通の親子として会話を交わせた。文彦は、今でも常に「監督」と呼び敬語で会話する自分と勇のような親子関係を望まなかったし、勇も心の奥底では望んでいなかったのではないかと考えている。
泰聖は捕手として入学したが、途中から投手に転向する。投手は中学時代に経験があった。ただ、ケガに苦しんだ。2年生の1月に肩を痛める。この時は1〜2カ月で投げられるようになったが、3年生になった春先、今度は肋骨を骨折。夏のメンバー入りを懸けた勝負の時期だけに、この出遅れは響いた。
勇がグラウンドを訪れ、直接指導を受ける機会もあった。「本人もわかっていたと思うけど、監督(勇)は『ちょっと厳しいな』と言っていました」と文彦は言う。
「僕が後悔しているのは、そのまま野手をやらせてあげればよかったかな、と。人数が多い学年だったので、生き残るにはピッチャーをやるしかない。監督として、ピッチャーの枚数はほしいですから。そう決めつけてしまったことが、あの子の可能性を狭めてしまったのかもしれません」
3年生の夏、泰聖は背番号18番でベンチ入りを果たす。故障後は、20人の枠に入るのは難しい状況だった。文彦も「その時には息子であっても外さなくてはいけない」と覚悟していた。だが、そこからの努力は、チームの誰もが認めるものだった。「一生懸命頑張ってくれて、僕も周りに対して変な遠慮なくメンバーに入れることができました」と文彦は目を細める。