大学でマネジャーになった泰聖

 泰聖にとっては、父や祖父の存在は重圧でもあった。彼から見たら、2人とも大学や社会人の名門チームのユニフォームを着てプレーしている、いわば野球界のエリートだ。自分が中途半端な成績で終わると、2人の顔に泥を塗ることになる。自分のことよりも、そちらを気にしてしまう時期があった。

 しかし泰聖は、「3年間、父と一緒に野球ができたことは、楽しいというのとは違うけど、かけがえのない時間だったので、後悔や嫌な気持ちはまったくありませんでした」と前向きに振り返る。

 泰聖は卒業後、城西大学に進学し、マネージャーに転向した。「弱いチームでも構わないので、プレーヤーを続けたい」と考えた時期もあったが、そこでレギュラーとして試合に出られる確信が持てなかった。そうなった時にどんな大学生活になってしまうのか、イメージすることができなかった。どんな形でも、目標を持って過ごせる4年間にしたかった。

 大学の練習会に参加した時に、現場を切り盛りするマネージャーの姿を見て、憧れのような感情が芽生えた。選手として心が折れかけていた時期だけに、「こういうのもいいんじゃないか」と思えた。文彦に気持ちを伝えると、「自分で決めたことなら」と、反対はされなかった。

 3年生になった今では、4年生の主務(主任マネージャー)から、オープン戦の対戦相手との交渉や、試合の時の用具運搬の段取りや弁当の準備といった仕事を任されることも増えた。「間違えないように」とひたすら一生懸命の毎日だ。

「日頃、選手からあれこれ頼まれることがあります。その時の言葉のやりとりが、マネージャーとしての信頼や評価だと思っています。僕は不器用だし、選手の皆さんがどう感じているかはわからないのですが、高校時代から、周りを気遣ったり、グラウンドに来てくれたお客さんに親切に対応しなさいとか、そういったことは常に教わっていたので、自然にやれているつもりです」

 大学野球という世界に来て気づいたことがある。文彦はよく「俺は大学でレギュラーになれなかった」と話していた。4年間で通算出場は36試合。そして1本塁打。その時は「そうなのか」と思ったが、今、大学野球全体のレベルがわかるようになって、東都リーグで、優勝もしている当時の駒大で試合に出場することの大変さを痛感している。

 しかも、神宮球場に行くたびに、「ここでホームランを打ったのか」と想像したら、「鳥肌が立ちました」と言う。

 だが、ホームランを打ったことを文彦は一度も話したことはない。泰聖が記録を調べて知ったことだ。「自分がこうだった」というよりも、チームメイトや対戦相手の、プロや社会人で名前を聞くような選手たちの名前を挙げ、「こんな凄い選手たちの中でやれたんだぞ」といつも話していた。そういう父親を誇らしく思えた。

 文彦は泰聖との高校3年間をこんなふうに振り返っている。

城西大学野球部でマネジャーに転向した息子の初鹿泰聖城西大学野球部でマネジャーに転向した息子の初鹿泰聖