プロ野球ドラフト会議で使用される抽選箱(写真:共同通信社)
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スポーツ興行におけるリーグ戦

 前回コラムに引き続きプロ野球の「ドラフト会議」について述べてみたいが、その前に、プロスポーツリーグの成り立ちと、そのビジネスモデルについて、ざっと俯瞰しておこう。

 プロスポーツの「リーグ戦」の始まりは何か?

 筆者は個人的には「大相撲」ではないかと思っている。大相撲は判明している限りで1757(宝暦7)年10月には番付を発行し、力士による総当たりの本場所を行っている。この場所の東大関の雪見山堅太夫から、今年11月場所新大関の大の里泰輝までは、一部火事などで焼失した番付はあるが、連綿とつながっている。大相撲の本場所は、仕組みとしては明らかにリーグ戦だと思う。

 ただ、一般的にはプロスポーツのリーグ戦は19世紀半ばのアメリカ東海岸の「野球」が発祥だと言われている。ブルーカラーの間で流行した野球は、試合数が増えるとともに、チームを組んで各地を転戦するようになった。そして各地の試合を、入場料を取って見せるようになり「プロ化」がはじまった。最初のプロチームはシンシナティ・レッドストッキングスだとされる。

 各地のチームとの対戦が定例化するとともに、勝敗で優劣を競うようになり「リーグ戦」が始まった。

 最初のプロ野球リーグは1871年に始まったナショナル・アソシエーションだ。当初は加入を希望するチームは誰でも入れる「オープンリーグ」だったが、極端な勝敗差がついた。1872年などはボストン・レッドストッキングスが39勝8敗で優勝した一方で、最下位のワシントン・ナショナルズ(現在の同名のチームとは別)は0勝11敗だった。また賭博や八百長も横行した。

 そこで1876年、リーグへの加盟の基準を厳しくした「クローズドリーグ」のナショナル・リーグが発足。ナショナル・リーグは現在もMLBの一方のリーグとして存続している。

クローズドリーグとオープンリーグ

 サッカー界では、1888年、イングランドにフットボール・リーグが誕生している。創設者のウィリアム・マクレガーはアメリカのナショナル・リーグを参考にリーグを立ち上げたと言われている。しかし、サッカーのリーグは、創設当初から「入れ替え」を前提とした「オープンリーグ」であり、その伝統が今も続き、世界中のプロサッカーリーグも「オープンリーグ」だ。

 実は野球などアメリカンスポーツと、サッカーなどヨーロッパスポーツのビジネスモデルが大きく異なっているのは、「クローズドリーグ」と「オープンリーグ」という「リーグの構造の違い」によるところが大きい。

 MLBなどプロ野球リーグには、原則として「入れ替え」はない。どんなに弱いチームで、何年下位に低迷しようとも、経営的に破綻しない限りはリーグにとどまることができる。

 20世紀に入って、プロ野球チームは下位に「ファーム」と称する「二軍、三軍」を創設したが「二軍」がどんなに強くなっても「一軍」に代わってトップリーグに参入することはできない。

 プロ野球リーグのチーム数が増えるのは「エクスパンション(球団拡張)」があったときだけだ。

 これに対し、イングランドのフットボール・リーグに始まるサッカーリーグは、下位に落ちると、下部リーグのチームと入れ替えになる。自動的に入れ替えになる場合と「入れ替え戦」がある場合があるが、弱いチームはどんどん下部に落ちていく。常に強いチームがトップリーグにいるという構造になっている。

 強いチームは人気も上がるので収入も増え、優秀な選手を高額で抱えることもできる。しかし弱いチームが脱落する一方で、新興勢力が現れ、強豪チームに挑戦するという「新陳代謝」が起こっている。

 ヨーロッパを中心とする、オープンリーグのスポーツでは、選手の獲得は原則として「自由競争」になっている。

 クローズドリーグでは、弱いチームは脱落することなく、いつまでも弱いままリーグにとどまっている。弱いチームには有望な選手が入団しないから「負のスパイラル」が起こって、上位チームとの格差はどんどん広がっていく。

 こうなると、リーグ戦への興味も失われてしまい、リーグそのものの人気が低迷する。

 そこで、有望な選手の獲得に当たっては、前年の下位チームから優先的に「指名権」があるとする「ドラフト制度」が導入されるようになった。

クローズドリーグを活性化させるための「戦力均衡」策

 ドラフト制度は1936年、アメリカンフットボールのNFLが導入したのが最初だが、1965年にNPBとMLBが同時に導入を決めた。

 MLBでは1950年~64年までの15シーズン、アメリカン・リーグではニューヨーク・ヤンキースが13回リーグ優勝。1955年には「くたばれヤンキース」というミュージカルが上演されるなど、リーグ戦のマンネリ化が深刻化していた。

 1965年に導入されたドラフト制では、前年、ワールドシリーズで敗退したアメリカン・リーグの最下位チーム、カンザスシティ・アスレチックスが最初に選手を指名、のちにオールスターにも出場した外野手のリック・マンデーを獲得。続いてナショナル・リーグの最下位チーム、ニューヨーク・メッツは左腕投手レス・ロアーを指名した。

 当時は20球団だったので、ア・リーグの優勝チーム、ヤンキースは19番目に選手を指名し、ナ・リーグの優勝チーム、セントルイス・カーディナルスが20番目に選手を指名した。

 前年の下位チームから選手を指名していく方式を「ウェーバー方式」という。MLBはこの方式を採用したことで、戦力均衡が進んだ。

リーグ活性化の効果は確か

 ただ、ドラフト制度は「選手が自由に行きたいチームを選択することができない」ことからアメリカでは、選手の職業選択の自由と、企業の自由競争を侵害するとして、反トラスト法(日本でいう独占禁止法)に抵触しているのではないか、という議論があった。しかし裁判所は、MLBのドラフト制度は「反トラスト法」の対象にならないという結論を出し、ドラフト制度を支持した。

 以後、MLBでは「ウェーバー方式」に則ったアマチュアドラフトが、大学生、高校生の学年末である毎年6月に行われている。

 当初は指名数に上限がなかったので、1969年のロイヤルズのように1球団で90人もの選手を指名することがあったが、1998年には50巡目まで、2012年には40巡目まで、2021年には20巡目までになった。それでも全体で600人もの選手が指名される。NPBでは育成ドラフトも含めて120人前後だから、スケールが全く違う。

 ドラフト制施行後、MLBでは数年のスパンで順位の変動が起きている。ドラフトによる戦力均衡化によって、リーグは活性化したと言えよう。

 MLBの場合、ドラフト外での入団も認められている。また海外の選手はドラフト対象外なので、ドラフト制度以降、強豪チームは外国人選手の獲得に積極的に動くようになった。これによって「国際化」が進んだという側面もある。

 さらに1990年代にドラフト制の補償として「FA権」が認められ、MLBのビジネスモデルやチームの勢力図は大きく変動した。

「巨人一強」というマンネリ

 NPBのドラフト制度の導入は、西鉄ライオンズオーナーの西亦二郎が、NFLのドラフト制度を知って、同様の制度の導入を考えたのがきっかけだ。

昨年のプロ野球ドラフト会議の様子(写真:共同通信社)
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 このコラムで紹介してきたように、当時の日本プロ野球は「巨人一強」が進行していた。各球団は巨人に対抗するために、有望選手の獲得に奔走したが、資金力に勝る巨人に負けることも多かった。また巨人は圧倒的な「ブランド力」があったため、「同じ条件なら巨人に」という選手も多く、他球団の選手獲得費用は高騰し、経営を圧迫していた。

 1950年代まで、日本シリーズで巨人と名勝負を繰り広げた西鉄ライオンズも、経営赤字に苦しんでいた。危機感を持った西亦二郎は、NFLのドラフトを取り入れようと考えたのだ。

 ドラフト制度は1964年7月のパ・リーグオーナー懇談会で提案された。パ球団はどこも経営難だったから、オーナーは全員賛同。これを経て10月12日のプロ野球実行委員会で提案された。

 しかしこの時期は「巨人一強」体制が確立しようとしていただけに、巨人が反対。阪神も追随するなど議論は紛糾した。セで明確に賛意を示したのは大洋だけだった。そこで「プロ野球選手採用制度審議会」が設けられ、継続審議となったが、翌1965年の開幕直前の4月8日の審議会でも巨人は「自由競争を妨げる」と強硬に反対した。

 席上、セ・リーグ側は「全球団の4分の3なら賛成する」と条件を提示した。そこで西鉄の西などパ・リーグ側が各球団を説得し、4月22日のプロ野球実行委員会で国鉄、中日が賛成に転じ、急転直下、ドラフト制度の導入が決まった。

ドラフト制度導入は決まったが…

 この時点では「今後は、ドラフト制度を経ずに新人を獲得しない」という申し合わせが決まっただけで、中身は決まっていなかったが、この年6月にMLBで初めて行われた「ドラフト会議」の内容を参考に中身を詰めることにした。

 ドラフト制度で最も重要なのは前年の下位チームから有望選手を獲得する「ウェーバー制」だ。しかし、巨人はこれに強硬に反対。結局、NPBのドラフトは球団が獲得を希望する選手の名簿を1から12までの指名順位と共にコミッショナーに提出し、指名が重複した場合は「抽選」にするという制度になった。

 11月17日、東京の日比谷会館で第1回新人選択会議(ドラフト会議)が行われた。

プロ野球選択会議(第1回ドラフト会議)の様子。 正面左から鈴木竜二セ・リーグ会長、松浦晋パ・リーグ会長、金子鋭、宮沢俊義、清原邦一の各コミッショナー。手前中央で抽選する左は永江近鉄代表、右は友田国鉄代表=1965年11月17日、東京都千代田区の日生会館(写真:共同通信社)
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 各球団は選手名簿を提出したが、注目された「抽選」は2回しか行われなかった。これは各球団のスカウトが事前に情報交換をして調整した結果だと言われている。

 巨人は甲府商の堀内恒夫、阪急(現在のオリックス)は法政大の長池徳二を獲得した。

第1回ドラフト会議において自身を指名した巨人への入団が決まり、川上哲治監督と握手する堀内恒夫投手=1965(昭和40)年12月25日、甲府市の自宅にて(写真:共同通信社)
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 長池は高校時代に南海の入団テストを受けたが、鶴岡一人監督に「大学に行け」と言われ、母校の法政大を紹介された。卒業後は、本来なら南海に入るはずが、ドラフト制度のために阪急入りが決まった。南海は以後、長池の豪打に苦しめられることになる。

阪急入りが決まり西本幸雄監督(左)と握手する長池徳二外野手(法大)。右は岡野祐代表=1965(昭和40)年12月20日、大阪市北区の球団事務所(写真:共同通信社)
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 MLBのドラフトが「戦力均衡」を目的としていたのに対し、NPBは「獲得費用の軽減」が目的だった。また、巨人などはしぶしぶ賛同していたために、以後もドラフトを巡って様々な騒動が起こった。

 しかし、このドラフト制度を契機として「巨人一強」時代は、終焉を迎えることになるのだ。