昨年10月26日に開催されたプロ野球ドラフト会議の様子。中央大の西舘勇陽投手投手の交渉権を獲得し、ガッツポーズの巨人・阿部慎之介監督(右)と日本ハム・新庄剛志監督(写真:共同通信社)
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現役選手の引き抜きも横行

 プロ野球の歴史を語るうえで、避けることができないのが「選手獲得にまつわるトラブル」だ。ドラフト制度が1965年にできるまでのプロ野球には、紳士協定的なものがあっただけで、選手獲得は「仁義なき自由競争」の世界だった。

1965年11月に開かれた第1回ドラフト会議の模様。抽選くじを引く永江近鉄代表(中央左)と友田国鉄代表(同右)。現在と比べるとかなり地味な印象だ=東京都千代田区の日生会館
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 古くは1940年、南海軍は明治大学のエース清水秀雄を大学を中退させて獲得したが、当時選手への契約金の上限は3000円とされていたのを、南海軍はひそかに2000円を上乗せして他球団を出し抜いた。これが連盟にばれて、清水は開幕直前まで入団が認められなかった。

 1978年に発行された「南海ホークス40年史」にはこの事件を主導した南海電鉄の小原英一社長が、職業野球の実質的なトップだった巨人軍創設者の正力松太郎読売新聞社長に呼びつけられ、厳しく叱責されたと書かれている。しかし最終的に入団は認められた。当時の規範意識はこの程度のものだった。

 戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の後押しもあり、プロ野球は人気を集めるようになったが、そんな中で多くの「引き抜き合戦」が発生する。

 1948年オフ、戦後3年、優勝から遠ざかった巨人は、待遇に不満を持つ南海のエース別所昭(のち毅彦)に接近し、引き抜きを画策する。南海は巨人を連盟に提訴。巨人の契約は無効とされ、タンバリング(事前交渉)に対して連盟は10万円の制裁金を科した。その上で、南海との契約交渉が改めて行われ、これが不調に終わったのちに別所は巨人に移籍した。

 この事件は、戦前、もともと巨人に入団する意思が強かった別所を南海が横取りしたことが背景にあるとされ、巨人が一方的に悪いとは言えなかったが、メディアは巨人を叩いた。

 この時期、正力松太郎は公職追放(パージ)の身であり、巨人で引き抜きを画策したのは安田庄司など正力と対立していた経営陣だったという。