強引な選手獲得が招いた「プロアマ断絶」

 プロ野球とアマ球界が決別するきっかけとなったのが、1961年の「柳川事件」だ。

 日本生命の強打の外野手、柳川福三はこの年の4月に中日ドラゴンズと契約したが、当時、社会人野球とプロ野球は社会人野球の大会期間中の3月1日から10月末まで、プロのスカウトはアマ選手を勧誘しない、という協定を結んでいた。

 中日の柳川獲得はこの協定破りであり、社会人野球は緊急理事会を開催して、プロ野球界との関係断絶とプロ野球退団者の社会人野球チーム入団拒否を決定した。

 これをきっかけとして、社会人だけでなく、大学、高校野球がプロ野球と決別することになる。「プロアマ規定」と総称される厳しいルールが決められ、プロ野球選手、指導者は、アマ野球の選手との接触を禁じられた。

 この規定のために、長嶋茂雄は立教大学に入学した長男の一茂を、表立っては一切、指導もアドバイスもすることができなかった。

 この時代のプロ野球界には、他球団の選手やアマチュア選手と接触する正規、非正規のスカウトがたくさんいた。また有力選手を売り込むブローカーもいた。高校、大学の指導者がブローカーのような役割を果たすこともあった。

 さらに各球団に張り付く新聞社の「番記者」が、スカウト、ブローカーのような役割をすることもあった。

 昭和中期のプロ野球は、今よりもずっと胡散臭い世界だったといえよう。