「巨人一強」がドラフト制度導入を後押し

 しかし1960年代以降、前回このコラムで紹介したように巨人が、プロ野球界の「一強」になるとともに「選手獲得の勢力図」も大きく変わるようになる。

 テレビの野球中継が「巨人オンリー」になるとともに、全国の野球少年は巨人にあこがれを抱くようになる。高校、大学、社会人の選手も多くが「巨人ファン」だった。このため他球団のスカウトが苦労して選手にアプローチしても、あとから来た巨人のスカウトにさらわれることが多くなった。

 また巨人は、人気だけでなく待遇面でも、群を抜いていた。

 筆者は昨年物故した、巨人軍先乗りスコアラーの小松俊宏に話を聞いた。小松は巨人V9の頃、新幹線で旧知の南海、野村克也監督と顔を合わせた。「お前何号車に乗ってるんだ」と野村監督は聞いた。巨人はスコアラーなどスタッフもグリーン車だった。しかし野村克也は普通車に乗っていたから、ごまかすのに苦労したそうだ。

 春季キャンプでも巨人は宮崎の最高級のホテルだったが、他球団は旅館や二流のホテルが多かった。球場での食事も、巨人の本拠地後楽園球場では、選手はビュッフェスタイルで豪華な食事を摂っていたが、パ・リーグ球団は球場内の食堂でうどんや丼物を食べていた。

 巨人の選手はOBになっても、テレビの解説者などでお呼びがかかる。また他球団の指導者に招かれることも多い。このため、他球団の主力選手は、選手生活晩年に巨人に移籍して「巨人OB」の肩書を欲しがる選手が増えた。

 国鉄で投打で活躍した関根潤三、大毎の中軸打者、柳田利夫、400勝投手の国鉄、金田正一、史上最多3085安打の日本ハム張本勲、大洋の4番打者松原誠などがそれだ。

 あまりにも「巨人ブランド」が強くなったので、従来のような「選手の争奪戦」は影を潜めた。

 しかし、他球団は巨人に選手をさらわれないために、契約金や、裏で支払う金品をあげざるを得なかった。

 各球団が選手獲得で疲弊した挙句に、1965年、ドラフト制度が導入されることになるのだ。