読売ジャイアンツの初代オーナーにして「プロ野球の父」である正力松太郎氏。警察官僚を経て、読売新聞社社主、日本テレビ会長、衆議院議員、北海道開発庁長官、国務相、原子力委員会初代委員長、科学技術庁初代長官、国家公安委員会委員長などを歴任。写真は原子力委員会委員長在任時の撮影=1956(昭和31)年撮影(写真:共同通信社)
拡大画像表示

警察官僚から読売新聞社社主に転じた正力松太郎

 日本では野球は「アマチュアスポーツ」として発展してきた。プロ野球リーグができるのは、野球伝来から64年も経った1936年のことだった。

 しかしアメリカでは、野球は草創期から「プロスポーツ」として発展した。カレッジ、ハイスクールでの野球は、プロより後にできた。

 1908年の「リーチオールアメリカン」、1913年の「ジャイアンツ、ホワイトソックス」、1920年の「オール・アメリカン・ナショナル」など。日本野球は「日米野球」でアメリカから選抜チームがやってくるたびに「進化」してきたと言ってよい。こうしたチームは、すべて「プロ野球チーム」だった。選手の多くはマイナーリーガーだったが、彼らはプレーをするだけでなく、日本の選手たちに野球の技術を伝えた。

 つまり日本野球は、野球の知識、技術はアメリカのプロ野球から学んだが、組織運営やマネジメントなどは日本流の「アマチュアリズム」という「ハイブリッド」で、進化したのだ。

 1920年代に入り、ヤンキースのベーブ・ルースが本塁打記録を次々と更新すると、MLBは従来の「ブルーカラーのスポーツ」から「ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)」へと変貌する。

 この情報は、大学野球や中等学校野球大会などで、野球ブームがおこっていた日本にも伝えられ、本場アメリカの「大リーグ」への関心が高まった。雑誌などでもベーブ・ルースなどスター選手の名前が踊るようになった。

 のちに「プロ野球の父」と呼ばれる正力松太郎は、東京帝大を出て内務官僚となり東京府の治安を統括する警視庁警務部長 になった。1923年、皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)の暗殺未遂事件(虎ノ門事件)が起こり、警備責任者だった正力は懲戒免職となる。

 警視庁を退職した正力は、読売新聞社を買収して社長になった。